彩雲国物語9紅梅は夜に香る [#地から2字上げ]雪乃紗衣 [#地から2字上げ]カバー・本文イラスト 由羅カイリ � 子供を|優《やさ》しくなだめるような、さやかな|吐息《と いき》が床《ゆか》にこぼれた。 「……本当に、私でよろしいのですね?」 「そなたがいい」  迷いのないその|響《ひび》きをかみしめるように、悠舜《ゆうしゅん》は瞑目《めいもく》した。  次いで彼の唇《くちげる》からこぼれた|微笑《ほほえ》みは、思わず劉輝《りゆうき》がドキリとするほど優しかった。 「では主上、ひとつ、お願いをきいていただいてもよろしいでしょうか——……?」 �  コツ、コツ、と沓音《くつおと》とは違《ちが》う小さな音が御《こだま》する。人柄《ひとがら》をあらわすかのように、杖《つえ》の音は春の雨だれのようにゆっくりと響き、やがて玉座に至る階《きざはし》の少し手前で止まった。  そこには、王と向かい合うように小さな|椅子《いす》がひとつ、置いてあった。  |両脇《りょうわき》にズラリと居並ぶ重臣たちの眼差《まなざ》しを水のように受け入れ、彼は本来なら脆拝《きはい》以外許されないその場所で、ためらわずに椅子に腰《こし》をおろした。 「鄭《てい》悠舜」  王の声に、悠舜は椅子に座ったまま両の手を組み合わせ、軽く頭《こうべ》を垂れた。 「茶《さ》州での功績を鑑《かんが》み、そなたを尚書《しようしょ》省尚書令に叙《じょ》し、以《もつ》て一の|宰相《さいしょう》にしたい。どうか」 「条件を受けていただけますならば……」  その声があんまり|穏《おだ》やかで優しかったので、その場の誰《だれ》もが彼が何を言ったのか、とっさにはわからなかった。  王自身も面|食《く》らった。 「……条件?」 「はい」  悠舜はにっこりと微笑んだ。そしてついと指を折る。 「第一に、民《たみ》を治めるにあたり仁義を重視すること、第二に、むやみな戦《いくさ》を慎《つし》むこと、第三に単に大貴族だからと権限ある地位につけないこと、第四に法にない官位を勝手に増やさないこと、第五に陛下のご威光《いこう》を笠《かさ》に着る者の不法を厳しく取り締《し》まること……」やわらかな、けれどきっぱりした言葉がその場に並ぶ重臣たちに響きわたる。  霄太師《しょうたいし》は面自《おもしろ》そうに口の端《は》をゆるめ、宋太博《そうたいふ》は口笛を吹きそうな顔をした。 「第六に、賄賂《わいろ》の途《みら》を塞《ふさ》ぐこと、第七に税金による道寺《てら》や離宮《りきゅう》など無駄《むだ》な造営をしないこと、第八に君臣の礼を明らかにするとともに、臣下に対して礼をもって遇《ぐう》すること、第九に諫言《かんげん》の途を広くひらくこと、第十にこの先、陛下のご婚姻《こんいん》に際してできるであろう外戚《がいせき》の政事介入《かいにゆう》を決して許さないこと……」悠舜の十の指がすべて折られた。 「——以上十|箇条《かじょう》、お約束いただけますなら、尚書令の位、伏《ふ》して拝し奉《たてまつ》りましょう」  ざわりと、その場が揺れた。  紅黎深がバラリと扇をひらき、黄奇人が仮面の裏で呆れたようーに嘆息した。 「……悠舜め、やったな……」 「ちっ、甘やかして。あんな演垂《はなた》れ|小僧《こ ぞう》、悠舜がかばう必要などないんだ」  面白くなさそうに黎深がぶつくさ|呟《つぶや》いた。 「誰もやらないから悠舜がやったんだろう。今の李絳攸《りこうゆう》や藍楸瑛《らんしゅうえい》にはできない芸当だ」  チラリと黄尚書が向けた視線の先で、絳攸と楸瑛が酢《す》を呑《の》んだような顔をしている。  先王と違い、|即位《そくい 》以来どこか|呑気《のんき 》な王の|雰囲気《ふんい き 》に|誤魔化《ごまか》されてきたが、女人《によにん》国試や茶州州牧の一件など、若い王が要所要所で独断専行をしてきたのは事実だ。それが、茶州の疫《えき》で押し通した数々の無茶で一気に表面化した。特に貴族連中の反発は水面下でひそかに高まっている。  けれど、今の「条件」により、王の考えは悠舜の考え《ヽヽヽヽヽ》にすり替《か》えられた。不遜《ふそん》とも言える提示をすることで、王に対する|矛先《ほこさき》は今後すべて悠舜に向けられることになる。  他武官とともに隅《すみ》に控《ひか》えていた静蘭《せいらん》が、睫毛《まつげ》をおろし、安堵《あんど》したように小さく笑った。 「——……おのが身と引き換《か》えに絶対の忠誠を|誓《ちか》うというのは、本来ああいうことだ」  最後はいつも一人で立っていた王。けれど、今ようやくその手に『楯《たて》』を得る。  王は何かを想《おも》うように目を閉じた。微《かす》かにうつむき、拳を握《にぎ》る。  どうして、彼がわざわざ『朝廷《ちようてい》百官がそろう場で』任命をと『願った』のか。  ——王とは、一人きりで|頑張《がんば 》るものだと、思っていた。まさか、こんなことをしてもらえるとは思ってもいなかったから。劉輝は許しを出すまでに、少し、かかった。 「……約束、しよう」  少し震《ふる》えてかすれた声に、悠舜はおっとりと微笑んだ。下官がうやうやしく進み出《し》で、掲《かか》げた漆塗《うるしぬ》りの盆《ぼん》から、真っ白な羽扇《うせん》をすくいあげる。柄《え》に結ばれた組紐《くみひも》は、紫《むらさき》の禁色と七の準禁色すべてが絡《から》み合う。それは、王より国を任された者にのみ許される相国の証《あかし》。 「では、お引き受けいたしましょう、我が君。尚書令|及《およ》び宰相位、謹《つつし》んで拝命いたします」  ——このとき悠帝が出した十の条件は、のもに『鄭君十条』と呼ばれ、劉輝治世の基本理念となる。また、後世『最上治』と渾名《あだな》される劉輝治世を支えることになる名宰相たちのうち、最初の一人を得た|瞬間《しゅんかん》でもあった。 序章  秀麗《しゅうれい》はひとつひとつの衣《ころも》に、綺麗《きれい》に火慰斗《ひのし》を当てていった。人肌《ひとはだ》ほどに温度がさがってくると、丁寧《ていねい》にきちんとたたんでいく。そして、すべての官服を衣装葛龍《いしようつづら》にしまいこみ、いちばん上に�蕾《つぼみ》″の轡《かんざし》をそっと置いた。轡の重みに、官服の上に敷《し》いた薄紙《うすがみ》が微かに|沈《しず》むのを、じっと見つめる。登殿《とうでん》さえ禁じられた今、秀麗はこの官服を着る資格さえない。  睫毛を降ろして、瞑目《めいもく》する。  その一瞬、少しだけ瞳《ひとみ》が揺れた。  ——自分がしたことに、何一つ、|後悔《こうかい》などない。それだけは胸を張って言える。  ……け《ヽ》れ《ヽ》ど《ヽ》。 (だめ)  その先にわき上がりそうになる感情を、息を吸ってのみこむ。さあ、もう一度、最初から。  顔を上げて。 「——さて、と。謹慎《きんしん》が解けるまで、なにかできること、やっとかないとね」  秀麗は葛龍の蓋《ふた》を閉めて、腕《うで》まくりをしながら立ち上がった。 �  胡蝶《こちょう》はその日、少ない|睡眠《すいみん》時間のせいで抜《ぬ》けされていない疲労《ひろう》に|眉《まゆ》をひそめつつ、いつもより念入りに髪《かみ》とお肌の手入れをした。適当な薄《うす》ものを引っかけ、何気なく階下に降りていくと、ちょうど大旦那《おおだんな》が何かを抱《カカ》えてホクホクしているところに出くわした。 「おや、おはよう胡蝶。昨日も遅《おそ》くまで例の変わったお客に付き合っていたのかい?」 「いや、昨日は親分連の会合に出てたのさ。ちょいと目を使いすぎたらしい。目が冴《さ》えちまって|眠《ねむ》れなくってねぇ……」 「日?会合でかね?」 「そう。それより大旦那、画商に画《え》を売るとかいってたじゃないか。そのご満悦《まんえつ》を見ると、売るんじゃなくて逆に何か買ったね?」  胡蝶が話を誤魔化しても、大旦那は気を悪くしたりはしなかった。大旦那が妓女連《ぎじよれん》を束ねる女親分を妓女にもつのは胡蝶が初めてではない。 「いやいや、画はちゃんと売ったよ。でもついね、別な画も買ってしまったんだよね」  もともと美術品や骨董品《こつとうひふ》集めが好きな大旦那だったが、コッソリ独り占《じ》めするのではなく、惜《お》しげなく垣娥楼《こうがろう》に飾《かざ》って喜ぶ度量があるのが彼のいいところだった。小さな壺《つぼ》一つに|庶民《しょみん》が一生遊んで暮らせる額をポンと払《はら》ったりするが、胡蝶の知る限りどれも値段に見合う価値があったし、いつも徹底《てってい》的に吟味《ぎんみ》してむやみに買い集めたりもしない。垣娥楼が長年|貴陽《きよう》一の妓楼と称《たた》えられているのには、あちこちを美しく彩《いろど》る大旦那の趣味《しゅみ》の艮さも多分にある。 「まだ無名の新人なんだけれどね、見た瞬間、ここまでビビッときたのは、本当に久しぶりだったんだ。まだ筆に少し迷いがあるけれど、絶対に大物になる……!」  きらきらと目を輝《かがや》かせる大旦那は、まるで子供のようで、胡蝶は少し苦笑《くしょう》した。 「大旦那がそう言うなら、|間違《ま ちが》いないだろうね。雅号《がごう》はなんていうんだい?」 「それがね、落款《らつかん》がないんだよ。そこに付け込んで値切って安く買い叩《たた》いたのだけれど、落款なんかなくても構わないよ。いつもどおり、何日か一人で楽しんだら、ちゃんと店に飾るから、楽しみにしてておくれ」  大旦那はルンルソとした足取りで、巻物を大事そうに抱えて自室に行ったのだった。 � 「——例のものは、これと、これです」  とん、とん、と柴凛《さいりん》はまるで手妻のように二つの物品をそれぞれ劉輝の前に並べた。  執務室《しつむしつ》には、柴凛と劉輝の他《ほか》、悠舜と絳攸、楸瑛が顔をそろえていた。  一つは巻物。もう一つはキラキラと輝く貨幣《かへい》が一枚。  劉輝、絳攸、楸瑛が難しい顔をするなか、悠舜は別段顔色も変えずに柴凛に訊《き》いた。 「……凜、全商連でできるかぎり情報を抑《おさ》えられますか?」 「いたしましょう。幸い、公孫殿《こうそんどの》は話せばわかる御方《おかた》ですので」 「ではお願いします。——凛、ここから先は申し訳ありませんが、ご遠慮《えんりょ》下さい」  柴凛は領《うなず》いて追出した。 「さて、主上も、宰相会議でいきなり議案に出したりなさらないでくださいね」  その意味に気づいた絳攸は眉を跳《は》ね上げた。 「……ということは、黄|尚書《しょうしょ》にも伝えないおつもりですか?」 「ええ、しばらくは。皆《みな》さんも内密にしてください。ちょっと他に思うところがあるものですから……。それに、すでに御史台《ぎよしだい》が動いているようですので、少し様子を見ましょう」  監査《かんさ》を担当する部署・御史台の名に、劉輝たちの顔つきが引き締《し》まった。 「……悠舜殿、何か考えが?」 「そうですね……主上もご|即位《そくい 》から四年目になりますから、そろそろ名だたる画師にでも、肖像画《しょうぞうが》なぞ一筆描《いっぴつえが》かせてはいかがでしょう。翰林院図画《かんりんいんとが》局からも要請《ようせい》がきておりますし」  さすがに若者組の目がそろって点になった。……画?  悠舜は羽扇で口元を覆《おお》うようにしながら、目元を|微笑《ほほえ》ませた。 「実は、妻の極秘《ごくひ》情報によると、あの碧幽谷《へきゆうこく》が貴陽近辺にいらしてるらしいのです」 「え!?碧幽谷が貴陽にきてるんですか!?」  楸瑛は思わず声を上げた。  碧幽谷は若手ながらその芸才はすでに多方面に広く知られ、特に画に関しては当代|随一《ずいいち》との名声を恣《はしいまま》にしている天才画師である。劉輝や絳攸も何度か見たが、まさに筆舌《ひつぜつ》に尽《つ》くしがたい、|魂《たましい》が吸い込まれそうな絶美の世界を描《えが》く。しかし、当の碧幽谷が表に出てくることはなく、碧家もなぜか|一切《いっさい》の情報を伏《ふ》せている謎《なぞ》の存在でもある。 「良い機会です。ぜひ捜《さが》して、丁重《ていちょう》に城に招鞘《しよう▼へい》して、お仕事をしていただけたら《ヽ11、、、、1、、1、》、と」  劉輝と絆牧は首を捻《ひね》った。まだ悠舜の言わんとすることがわからない。なぜいきなり画。 「ああ……余も千年に一人の逸材《いつご、い》だと思うが、肖像画をといっても確か彼は……−あ!」 「そういうことか!」 「なるほどね……」 「いかがでしょうか? ぜひ、一世一代の大作を物《もの》していただきたいと思うのですが」  とぼけた様子で訊く悠舜に、劉輝はえへんえへんと妙な咳払《みょうせきばら》いをした。 「う、うむ。そうだな。ぜひ! 何が何でもお仕事の依頼《いらい》をしたいものだ。余も今が旬だ《しゅん》し。もちろん肖像画の依頼ではあっても、たまには、幽谷殿も画ではないものもつくってみたくなったりするかもしれぬし。余も画以外の幽谷殿の作品をぜひ見てみたいと思う!」 「そうですねぇ。画以外でも実はずば抜けて多才というのは、あまり知られてませんからね。私もぜひ見たいですね。なんでも碧幽谷は常に所在不明でふらふらっとどこぞへ行ってしまうようですから、私も内々かつ早急《さつきゅう》に手勢を割《さ》いて情報を集めます」 「よし。吏部《りぶ》にも碧家の人間がいるから、俺も何か知らないか吐《は》かせ一−訊いてみることにする。まあ、金物屋の値段があがるまでには何が何でもとっ捕《つか》まえ−依頼したいからな」まるで満点をとった子供を褒l《ま》めるようににっこり笑った悠舜に、楸瑛は苦笑いした。 「……悠舜殿を十年も配下にしていた燕青《え人せい》殿は、タダモノじゃあないな……」  鋒他も深々と頷いた。・——1さすが黎深様の▼ご友人だ。          蜜帝臆舎熊  城の一郭《いつり.く》、政事堂と呼ばれる場所で宰相会議は行われる。碧幽谷の話のあと、政事堂に登殿した悠舜はまるで十年前から居たかのように、土の左隣で滞《けド」りごなりとどこお》りなく案件をさばいていく。 「……では、高齢のため退官なきった翰林院《一りり人りんいん》長官後任の件は当面保留ということでよろしいですね。文学・書芸・図画など芸術各局を司《つかきご》か長官職ですから、やはり碧家に打診《だしん》した結果を鑑《かんが》みてから、再考することにいたし草しょう。では、本日の案件はこれですべて……」宰相会議に出席できる資格をもつ官位は複数ある。ただし、空位の官や仙洞《せんとう》省長官のように                       じ土工/り博うある特別の埋由から常駐《・1.,−》の官位ではないものもあるため、常に全員がそろうわけではないし、次官がそのー任を補ったり、議案によっては他の二官吏たちも出席したりする。また、名誉《めいよ》官位である朝廷《らょうてい》三師三公の席が埋《う》まっていれば、その六人も宰相会議に出席する資格を持つ。 「あいや、お待ち下されい!」  終了間際《しゅうりよ、つまぎわ》、すかさずビシッと手を挙げた白髪《は一\はつ》の老人に、劉輝はギクリとした。  非常駐の仙洞令習のかわりに次官・仙洞令翠《れ∴∵いん》として実質上仙洞省を束ねているその老官吏は、背は低く、今も|一生《いっしょう》懸命《けんめい》立って背伸《せ由》びしているのに劉輝の胸にも届かない。|眉毛《まゆげ 》も髭《ひげ》も雪のように真っ白でモコモコで、目と臼が埋もれている。現役最高齢《げんえきさいこうれい》官吏擢瑞《かい紬》より年下なのは確かだが、彼のほうが百歳ほど年上に見える。劉輝など、彼が小さな姿でちょこちょこ歩く様を見るたび、愛玩《あいがん》小動物を見ているようで、思わずていっと捕まえたくなる衝動に駆《しようごうか》られる。  が、ここ半年ほど、彼�羽令努《うわいいん》から逃《に》げ回っているのは劉輝のほうであった。  仙洞省の主な仕事は、仙学《せんがく》・天文・暦《こよみ》・気象学・占星《せんせい》などだが、いちばん大事なのは−。 「−劉輝様の結婚《けっこん》問題が残っておりますじゃ!」  元気いっぱいに羽官吏が|叫《さけ》んだ瞬間、《しゅんかん》劉輝は問答無用で逃げた。 「あっ、お待ちくだきりませ陛下あああああ」  羽官吏も負けじと追いかけた。王家及《およ》び主要大貴族の婚姻《こんい人》を司る仙洞省の実質上の長として、去年からこっち、羽官吏は仙洞省のヨボヨポ官吏を引きつれて劉輝を追いかけ回していた。 「男子《だんじ》たるもの嫁御《よめご》をもたないと一人前にござりませんのですじゃああああ」  遠ざかる羽官吏の声が|尾《お》を引いて回廊《み.いろう》に響き渡《け一げーわた》るのが聞こえた。  きいきいと扉が寂《とぴらきぴ》しげに閉まったなか、宋太博と霄太師はこめかみをかいた。 「……仙洞省で年がら年中本に囲まれてる割には、足腰《あしこし》が|丈夫《じょうぶ》なんだよな羽羽殿《ううどの》は……」 「……あれでわしらよりずっと年上なんじゃがのー……」  姓《せも、》も羽、名も羽。あまりの外見的フカフカ可愛《かわい》さに、女官《によかん》たちにひそかに 「うーさま」などと愛称《あいしょう》で呼ばれ、擢稀とは別の意味で人気があることを知らないのは当の本人だけである。最高大官の一人かつ、高齢の長老でありながらそこまで親しみをもたれるのは彼以外にない。  悠舜が苦笑しつつ、そばの杖《つえ》をつかもうとすると、門下省長官と目があった。 「……鄭尚書令」 「はい」 「先日の主上に対する例の条件だがー」  そのとき、さっき劉輝が出て行った扉が、際《�11》っ飛ぶかと思う勢いでもう一度ひらいた。 「−忘れ物をした」  戻《もご》ってきた劉輝は室を突《つ》っ切り、『忘れ物』悠舜を肩《かた》に担《かつ》ぎ、またまた扉からでていった。  どこか遠くで、羽官吏の 「嫁御をぉおおお」という悲しげな声が聞こえた。 「気に入りませんな……」  王と悠舜が消えた室で、門下省長官・旺李《おうき》が|呟《つぶや》いた。  宵太師と宋太博が視線をやれば、もうすぐ六十に手が屈こうという奴は、椅麗《き41しl》にたくわえられた短い口髭に、威風堂々《しふうごうどう》とした雰囲気《ふんいき》をもち、両老師にも物怖《ものお》じしない。 「先王陛下の御代《みよ》にて、数多《あまた》の名家が無為《むい》に滅《はろ》ぼされ、また没落《ぼつらく》に追い込まれました。門下省には、そんな不遇《ふぐう》をかこった貴族がごまんといる。私の副官もそうです」貴族の牙城《がじょう》と言われる門下省長官・旺李は、チラリと宋太博を見た。宋太博はその眼差《まなぎ》しを静かに受け止めた。彼が将軍として多くの貴族を滅ぼしてきたのは、紛《車ぎ》れもない事実だった。 「それに比べれば、七家と繚《ひよlつ》家はすべからく直系の血を残すことを許された」  例外は茶鴛拘《さえんじゅん》・繚英姫《ひlようえいき》の婚姻くらいだが、鴛泡の弟がその前に茶本家の娘を要《むすめめと》っており、さらに|息子《むすこ 》も同じく直系の娘を迎《むか》えて血を継《つ》いだ。茶克泡《こくじゅん》の当主就任が認められた蓑には、彼が祖母・母を通して直系の血をもっとも色濃《いろこ》く引いていたからという点も大きい。 「七家と繚家は、他家と違《ちが》って優遇《ゆうぐう》されすぎている……そうは思われませぬか」  答太師は首をすくめただけで答えなかった。もとより旺李《おうき》も返事を期待してはいなかったらしく、|眉《まゆ》を動かさずに王と悠舜が出て行った扉の向こうに首を巡《こうベめぐ》らせた。  旺李は立ち上がると、退出のために室を横切った。 「主上は、先王陛下とは違うと期待しておりましたが……やはり血は争えぬのでしょうかな。陛下が、|即位《そくい 》以来たった数年で、私たち門下省の諫言《かんげん》を無視して断行した政策の数々……いかに郵悠舜を楯《たて》にかわそうと、門下省の長である私が忘れるわけには参りますまい」 「……旺季殿《どの》。それでも貴族は、一般庶民《いつばんしよみん》よりはるかに優遇されているとは思われぬかの」なにげない調子で声をかけた宵大師に、退出寸前だった旺長官は視線だけを投げた。 「−当然ですな。目に見える形で身分制をわからせなくは、民《たみ》を従えられませんゆえ」  誰《だれ》もいなくなった室で、宋太博は硬《かた》い髪質《かみしっ》の頭をわしわしとかきやった。 「俺もお前も、旺季みたいな生粋《きつすい》のお貴族様じゃないからな。旺家は紫《し》門四家の一つだったか」 「そうじゃ。今の工部侍即《じろう》の欧陽《おうよう》家も碧門四家の一つじゃな」蒼玄王《そうげんおう》の御代から脈々と続く彩《さい》八家。けれどそれも、各家それぞれにその繁栄《はんえい》を支え、輔《たす》けてきた者たちがあればこそだ。時代に応じてめまぐるしく入れ香《か》ありはあるが、その功績を特別に認められた一族は門家筋と呼ばれ、七家及び腰家に次ぐ名門とされてきた。  ただし、旺李の言葉通り、先王の時代に名門貴族の多くが|滅亡《めつぼう》、もしくはしばらく再起不能  たた  りぷに叩き|潰《つぶ》されたため、生き残った門家筋の貴族も少数をのぞいて以前ほどの勢力はない。  それらの戦《いノ、さ》を命じた先王や零太師に、宋太博はよほどでない限り何も訊《き》かずに従ってきた。 「……未、お前は、昔っから、何も訊かないな」 「お前や駕泡が考えることを俺が訊いてどうする。俺のすることは昔から変わらない」  殺す者はいつか誰かに殺される。宋太博は自分が床《し一二》で死ねるとは今も思っていないし、そのつもりもない。駕抱が最後まで信念を貫《つ・りlぬ》き通したように、自分の死に方もとうに決めてある。  いつか必ずくるであろう、そのときのために、宋太博は城にいるにすぎない。 「霜……しやしやりでしゃばるのはいかんが、ヒヨッコどもが万策尽《ぼんさノ、つ》きていつか最後の最後にお前を頼《たよ》ってきたら、意地悪しねぇで助けてやれよフ」まるで遺言《ゆもlごん》のような言葉に、霄太師の帆が僅《まなじ象−わず》かに歪《抽が》んだ。  未年凱は馬鹿《そうし軸人がいばか》ではない。どうして自分や駕画や先王が多くの貴族を滅ぼし、叩き潰してきたのか。国試制を導入したことの意味を。自分たちが始めたことを、王や鄭悠舜が引き継ごうとしている。けれど見据《みす》えた未来に辿《たご》り着くまでに、起こりうることを乗はわかっている。  紅秀麗を貴妃《きけ》に据《す》えて以来、ほとんど動かない自分の迷いさえ−。 「……私に、指図するなこの剣術バ《けんじゅつ》カ」  だから、ただそれだけを呟いた。まるで子供の痛感《かんしやく》のように。  かつては冷然とすべてを|一瞥《いちべつ》してきた自分の世界が、いつのまに身動きの仕方さえわからないほどぐちゃぐちゃと複雑になったのか、零太師はわかりたくもなかった。            容態儲魯龍  彼は短い口髭を撫《な》でながら、手に入れたばかりの画《え》に満足げにニソマリした。 「息子よ」  彼の息子は一応官吏《かんり》だったが、今日も今日とて登城する気配もなく、邸《やしき》でゴロゴロしている。  たまにおめかしして出かけるときもあるが、まず間違いなく仕事でなく遊びに行く支度《したく》だ。金で官位を買ってやっただけなので、登城しても別にたいした仕事はないのだろう。 「|暇《ひま》ならぜひやってもらいたいことがある」  それまで、組んだ両足で卓子《たくし》を押し、|椅子《いす》の脚《あし》を浮《う》かせてぶらぶらさせ、自ら揺《紬》り椅子をつ                                                            ユくる努力をしつつ口を開けて寝《■》ていた息子が、ちょっと顔をあげて彼を見た。 「……やってもらいたいことぉ?」 「まあ、簡単に言えばある娘をたぶらかして結婚にまでもちこめということらしい」 「らしいって、ナニ、親父《おやじ》、誰かお|偉《えら》いサンからモー言われたわけ?」 「うむ」 「へーえ」  隣の塀《となりへい》が吹っ飛んだ、といっても同じ返事がかえってくるくらい適当な声であった。 「お前、今好きな娘さんとか、別にいなかろう。文《ふみ》も書かなけりゃ、逢瀬《おうせ》にも行ってる様子もないことくらい、お父さん知ってるぞ」 「な、なんで知ってるんだよ。仙人《せんにん》かよ」 「そりゃ、日がな一日ゴロゴロしているのを見れば誰でもわかる」 「……つtか、相手誰なわけ? たぶらかせってことは、うちより格上の貴族なんだろフ」 「超《おり▼よう》格上だ。雲の上だ。なんたって紅家の娘だからな」|一拍《いっぱく》。息子は椅子を揺らしていた足をすべらせ、豪快《ごうかい》に椅子ごとひっくりかえった。 「もしかしなくても例の女官吏のことかよ!?絶対いやだね!」 「まあそこをなんとか。結婚して気に入らなければ離縁《l}、えん》すればいいだろうL 「やだっつtの。言いたいことはわかるけどさ�あんな、毎回毎回なんか憑《ツ》いてんじゃわーのっていう急転直下型の人生わざわざ自分で選んで突っ走ってる女なんか|冗談《じょうだん》じゃねぇ。山あり谷ありどころか谷谷谷《たにたにたに》でドンドコズソドコ危険地帯に飛ばされてさt。あんな女と|一緒《いっしょ》になったら、気づいたら落石注意どころか鹿《しか》も熊も猪《くまいのしし》もツルッといくような奈落《な・りく》の底にいて、落ちてきたシカ食うしかな半崖《がけ》っぷち人生に決まってんだろ」たまに自分の息子は賢《カしこ》いんじゃないかと父は思う。なんというわかりやすい説明だろう。 「う、うーむ。でもな、爵位《しやくい》も上がるし禄《ろく》も上がるしツテも増えるし、何よりお金がたくさん入って、お前の官位も上がってえばれるよtになるんだぞ」 「……早い話、どっかのお偉いサンに金と爵位と引き換《か》えに俺の結婚を売ったってワケね」 「そのとおりだ息子。これがその娘《むすめ》の家の地図だ。まず行って一発ガツソと|求婚《きゅうこん》してこい。娘となにがしかの約束を取り付けてくるまで、家の門をくぐることは許さんぞ!」 「マジかよ。|面倒《めんどう》くせーなー……」タラタラと立ち上がりながら、息子はぐるりと室《へや》を見渡《みわた》した。 「ところで親父、なんでこのごろこーゆーゲイジュツに急に目覚めちゃったわけ」 「フフ7、爵位が上がったときのためた、頑張《がんぼ》って造詣《ぞうけい》を深めようと思ってな」  父はお気に入りのくるんと巻いた短い髭《ひげ》を撫で、得意そうに胸をそらした。   ータラタラした様子で家を出た息子は、門前にいたあやしい露天商《ろてんしよーフ》に声をかけられた。                              お 「もしもしそこ行《むr》く色男さん。よヅ、男前!」  迷わず足を止めた息子に、|目深《ま ぶか》に覆《おお》いをしていた露天商は、口許《くちもと》だけでニヤツと笑った。 「とっておきの商品があるんですよ。ビーぞビーぞ〜。お時間はとらせませんよ〜」 「でもなt、今からガツソと求婚に行かなきゃならないんだよなー」 「それこそ運命! ガツソと求嬉しに行くそんな男前なあなたにピッタリな商品がコチラ!」  男前というコトバに気をよくした息子は、ノコノコと露天商に近寄った。 「そぉ? じゃ、ちょっとだけなー」  そうして息子は見事に露天商の口車に乗ってしまったのであった。    l量■書書▼00、申し込みます  劉輝はその夜、静蘭からそっと手渡された、差出人のない書翰《しよかん》を読んでいた。  そこには、以前劉輝が毎日のように届けていた文のような、たった一行。  �桜が咲《ヽぜ》くまで。  劉輝は何度も何度もその文字をさらった。何もかも軒《1で》い、謹慎《きんしん》に処した劉輝に、ただそのひと言だけを伝えた秀麗の、書かなかった心を余白からすくいあげるように。  目を閉じる。! 誰が何と言おうと、自分の下した決断に|後悔《こうかい》はない。  ……け《ヽ》れ《ヽ》ど《ヽ》。  そのあとを打ち消すように頭を振《かぷりふ》る。それは、王が《1、》言ってはいけない言葉だ。だから。 「……わかった」  そして、声には出さずに、つづきを|呟《つぶや》く。 ——桜が咲くまで、待っているから……。            虚韻鵡能書 「あ、胡蝶妓《ぬえ》さんからの文!」  茶州から帰ってきてからはとんど日課になった、書翰の整理をしていた秀麗は、今日届いた文の▼中に胡蝶妓さんからの文を発見して、いそいそとあけた。  ちなみに邵可《しようか》は家にいるのだが、静蘭は城に出仕していていない。今日は公休日なのだが、運悪く警衛の当番に当たってしまったらしい。  邵可は嬉《うわ》しそうな秀席を見て、うながしてみた。 「何て書いてあるんだい、秀廣」 「落ち着いたら、会わせたい人がいるので遊びにおいで−つて」 「おや、じゃあ今日も出かけることになりそうだね」 「そうね。今日は短蛾楼方面に行ってみるのもいいかもしれないわ」  邵可はチラリと庭院《にわ》のほうに視線をやった。正確には、さらにその先−秀麗が茶州から帰ってきてから、邵可邸《てし.》のまわりをこそこそうろついている者たちを、だが。 「気をつけて、行っておいで。あんまり遅《おそ》くならないようにね」  邵可が何気なさを装《よそお》って|微笑《ほほえ》んだとき、元気な声が門前から聞こえた。 「ごめーんくださーい」  そうして、以前道寺《てら》で勉強を教えていた柳晋が《りゆうしん》、ひょっこりと庭院から顔をのぞかせた。 「あら、柳晋。いらっしゃい。なぁに、今の時間に遊びにきてて|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」 「へーきだって。おわ、秀麗師、《せんせい》ナここの文の量」  秀麗に会いにきた柳晋は、料紙の山に埋《う》もれるように座っている秀麗に唖然《あぜん》とした。  柳晋は積み上がった書翰を崩《くず》さないように、指先でそろそろと一つ一つつまんでいき、それぞれ中をのぞいてみた。なんだかんだ言いながらほとんど休まず道寺にきていた柳晋は、基本的な読み書きはちゃんとできるようになっている。 「……塩がちょっと高い……金物の質がちょっとワルイ……近所の▼ダレソレが借金こさえて夜《ょ》逃《こ》げした……どこそこのドラ|息子《むすこ 》が働かなくて困ってるらしい……つてなんだよこれー……」柳晋は床《ゆか》に座り込みながら・、むっと口を尖《とが》らせた。 「なんだよなt。秀麗師はいまお休みだってのに、オトナってのはさー。なーんで自分のコトしか考えねーかなー」 「こら。そんなこと言わないの」 「でもさ1、秀麗師、ナンデモ苦情相談係じゃわーだろ」  ちなみに街に出れば出たで必ず近所のおっちゃんやおばちゃんに世間話でとっつかまっているので、柳晋はなかなか秀麗と話せなくて、余計面白《おもしろ》くなかった。 「こんなん秀麗師一人でなんとかできるわけないじゃんなー。だって苦情って|普通《ふ つう》役所に言うんだろ? えーと、貴陽だから紫州府、だったよな」 「そうそう。よく覚えてたわね、柳晋」  柳晋は嬉しそうに鼻の頭をこすった。背は伸《の》びたのに、そんな仕草は前のままだ。 「なのにみんな秀麗師に苦情いってビーすんだよな」 「いいのよ。普通州府まではよっぽどじゃないと行けないし」 「……あのなt、秀麗師のカキネが低すざるからみんな甘えるんだぜ。官吏《かんり》になったのに親近感ありすぎ。他《はか》の役人みたいにえぼってりやいいのに、前と同じ生活してんだもん」普通なら一般人《いつばんじん》は敬遠しがちな官吏だが、秀麗が茶州から帰ってきてからも相変わらずポロ邸《やしき》に住まい、しっかり裏の畑で春蒔《はるま》き野菜の種まきをしたり、同じく静蘭が崩れかけた土塀《ごペい》や屋根の雨漏《あまも》り修理などしたりしている|目撃《もくげき》情報が《●》多数あったため、すっかり安心してしまったのだ。官吏という要素が加わったぶん、かなり気軽にお悩《なや》み相談にこられている。 「給料、めちゃめちゃもらったんじゃないのかよ。隙間風《すきまかぜ》くらい直ってると思ったのに」 「全部、学舎につぎこんできちゃったのよ」 「学舎?」 「そう。仕事で出かけたのが茶州ってとこだったんだけど、そこでね、大きな学舎をつくろうってことになってね。その建設にお金がかかるから、大見得きってお給料全額置いてきちゃったの。だから文無しで帰ってきたわけ」 「あーあ。相変わらずだな。ちっとくらい残しとくってどうしてできねーかな」秀麗は返す言葉がなかった。しかしまさか柳晋から言われるとは思わなかった。 「じゃあそれが、なんかカッ飛んだことやってクビになりかけてキンシソチュウって理由?」 「ぐっ」  急所を見事一撃され、秀麗は頬《ほお》を引きつらせた。子供のなんと正直なことよ。いやー柳晋の伸びた背に、秀麗は笑った。もうそろそろ子供とは呼べないかもしれない。 「た、確かに謹慎中だけど、理由はそれとは違《ちが》うし、ま、まだクビにもなってないわ」 「すげーな秀麗師。じゃ、それ以上のぶっ飛んだことやらかしたんだ。かっこいいぜ」 「…………………………。………………そ、そうね………………」  確かに今思い返せば相当むちゃくもゃをした。  柳晋ほあぐらをかきながら、ちょっとうつむいた。 「なあ秀麗師、さっきの嘘《・う嘉、》」 「うんフ」 「相変わらずカキネ低くて嬉《うれ》しかった」  変わってないことを確かめてくると他の子供たちに約束して、こっそり畑仕事を抜《ぬ》け出してきた甲《・か》斐《神−》があった。 「ちゃんとみんなの話を聞いてくれる師のままで、嬉しかったんだぜ」 「柳晋……」 「お帰拘、秀麗師。俺さ、それがいちばん……瑠紅い」ひげ   し  照れ隠しのぶっきらぼうな言葉が、ストンと素直に心に響いて、胸に抽みた。     「�ヽノlrやヽ一+一−1rヽ  日日? 一己1−1 「でもさ、クビじゃなくても今の師《セ人ゼし》は官吏じゃないんだろ? 師《ゼ人セい》これからナこするわけ?」  何気ないその言葉に、秀麗ほ小さく息を呑《の》み、その眼差《まなぎ》しが少し、揺《ゆ》れた。 「そうねぇ……」  しばらく沈黙《ちんも′1》した秀麗に、柳晋は首を傾《かし》げたあと、あることを思いだした。 「あ、そいやさっきの、茶州の学舎ってもしかしてさー」  そのときだった。 「げっ! 柳晋お前畑仕事ほったらかして何やってんだ。親父さんが|怒《おこ》って捜《さが》し回ってたぜ」久々に聞く声に振り返り、秀麗は|驚《おどろ》いた。 「あら三太《きんた》。どうしたの」 「いい加減、慶張《!?いちょう》って呼べっていってんだろ……」  秀麗の幼なじみで王《おう》商家の三男坊《ぼう》が、庭先に立っていた。 「よぉ、久しぶり」            舘患歯瀞薔  吏部に公休日などという言葉は存在しない。  敬愛する吏部侍郎《じろう》・李緑綬に個人的に呼び出されたとき、秀麗と同期及第の碧拍明《きゅうだいへきはくめい》は|先輩《せんぱい》に掩《し》れていた茶を放《ほう》り出し、鬼《おに》先輩の|怒声《ど せい》も無視して速攻《そつこう》で呼び出しに応じた。が、喜び勇んで飛んでいった侍郎室で、経仮の口から出た名に彼の頭は真っ白になった。 「へ、碧幽谷……ですか」 「そうだ。主上の頼《たの》みでな。内々に捜して早急に連絡《暮.1んらく》を取りたいとのことなんだが、何せ|一切《いっさい》の情報が併《;》せられている謎《なぞ》の画師《えし》だ。顔かたちどころか年齢《ねんれい》もわからん。お前なら何か知ってるかと思ってな。どうだ」 「え、あ、は、はあ……」泊明はしどろもどろに口ごもった。絳攸はその様子に片眉《かたまゆ》を跳《は》ね上げた。進士の折に泊明が提出してきた『官位及《およ》び職官の再編成』の論を見てから、さりげなく心にかけてきたが、いつも物怖《ものお》じせずズバズバものを言う彼とは明ら・かに様子が違う。 「どうした。お前の|親戚《しんせき》なのは間違いないだろう」 「は、はい……まあ……」 「歳《とし》はいくつくらいのかたなんだ? 十年前には画壇《がだん》で脚光《きやつこう》を浴びていたときくから、若くても三十から四十というところか」 「え、と、あの……」 「……。……碧幽谷というのは雅号《がごう》だな。本名はなんとおっしゃる?」 「え…ええと……ですね……」さすがに絳攸は批《まなじわ》を険しくした。 「碧痢明、歯にものがはきまったような言い方は不愉快《ふ紬かい》だ。ハッキリ答えろ」  もともと官吏としての李絳攸は、吏部尚書の片腕《しようしよかたうで》として名高い凄腕《すごうで》の能吏である。上司同様、公《おおやけ》の場ではほとんど感情を表さずに瞬時《しゅんじ》に決裁を下す怜倒《れいり》な切れ者として知られている。  ぴしゃりとした厳しい追及《ついさゆう》に、拍明も|覚悟《かくご 》を決めた。 「……では、碧家の者として答えさせていただきます」  呑まれないよう腹に力を込《こ》め、ぐっと顔を上げる。絳攸は心の中で感心した。この場で自分の目をまっすぐ見据《みす》えて顔を上げられる者は多くはない。 「碧幽谷に関するいかなる問いにも答えることはできません。不敬罪で|処刑《しょけい》されることになっても、何もお教えすることはできません。これは碧一族の総意とお考え下さい」きっぱりとした並々ならぬ気曝《きはく》に、絳攸は驚いた。 「……なんだ? 別にとっ《.》て喰《く》おうというわけじゃないぞ」 「ま、まあ、確かにここまで完全に情報を遮断《しやだ人》するのは碧家としてもあまり例がないんですが……碧幽谷に関してはイロイ? あって……」泊明は何やらわざとらしく|咳払《せきばら》いした。次いで、|真面目《まじめ》な顔つきになった。 「……碧家は、芸能の一族です。昔から、書・楽・舞《まい》・工匠《こうしょう》……あらゆる技芸・芸能を守り、育ててきました。門外不出の秘伝、一子相伝の極意《ごくい》も多々あります。それを伝承するために、他家よりも閉鎖《へいさ》的なのは事実です。中央政事と|距離《きょり 》を置き、それでいて、世論操作や民意の洗脳のために、碧家は何度も王や他家に利用されてきました。それに抗《あらが》って、信念のもとに散っていった文人は数え切れません。だからこその情報非開示なのです。もう、失うわけにはいきません。−碧幽谷自身が、碧一族が守るべき当代最高の『碧家の至宝』なんです」 「『碧宝』というやつか……」  国宝と同等、もしくはそれ以上の価値があるといわれる、碧一族の総意によって認定《にんてい》される至宝の文化財。多くは『モノ』にかけられるが、稀《まれ》に『人』にかけられることもある。 「碧家が守るのは、人の意思、です。誰の強制も許さずに、心を素直に表現できること、おかしいことはおかしいと言えること……『創《つノ、》り手』の心を守ることが碧家の誇《はこ》りなんです」  一官吏ではなく、碧家の人間としての顔をした再明に、経枚はふと既視《毒Jし》感を覚えた。そうだ……たまに、楸瑛が藍《、りん》家のことを話すとき、同じような顔をする。  そして樺他はようやく、彼が『なんのため▼に』朝廷《らようてい》に入ったの示を理解した。 「そうか。だからお前は中央に入ったのか」 「……いくら守ろうとしても、きな臭《.\ヽl》くなってから碧家ができることは少ないですから。結局、矛盾《むlじ紬ん》しているAです。緯度事《されいごと》が大好きで、自分の意思《コトバ》を伝えることが大好きで、世論にいちばん敏感《げんかん》で、|玉砕《ぎょくさい》上等で権力者に|煙《けむり》たがられる作品を率先《そつせん》してガソガンつくりまくる文人墨客《ぷんじんぽrJかJ、》を、どうやったって政事《まつりごと》から引き離《はな》すことはできないんです。だったら彼らを守るためには、政事からの聴離《かいり》ではなく、政事の最前線でコトが起こる前にくいとめる努力をするのが肝要《かんよう》だと、僕は思っています。幸か不幸か、僕にはさしたる芸才もありませんでしたし」紫州にまで神童の聞こえ高かった泊明だが、碧家に言わせると 「無芸」になるようだ。  拍明は両手を組み合わせ、謝罪の意をもって深々と頭を下げた。 「だからこそ、何もお答えできません。……特に、幽谷は近年、頓《とみ》に次期当主に指名される可能性が高くなってきましたから、余計碧家も慎重《しんらよう》になっているんです」  絳攸はちょっと|驚《おどろ》いた。何も言えないといいながら、さりげなく情報を流してくれている。  碧幽谷は当主を継《つ》げる、碧家直系の血筋なのだ。そして、それが拍明の|精一杯《せいいっぱい》なのだろう。 「もとより、碧幽谷に依頼《い∴∵い》をするときは、自分で頼みに行かなくては彼は決して受けません。幽谷が是《ぜ》と決めたことなら碧家も口出ししません。幽谷自身の言を借りるなら、『人に何かを頼むときほ王でもなんでも自分の足で探して頭下げにくる誠意を見せろ』というわけで……」 「……なるほど。相当頑固《がんこ》な人らしいな……」 「でも、それはごく|普通《ふ つう》のことでしょう」あっさりそう言った泊明に、絳攸は苦笑《・こ、しよ、ツ》した。確かに、碧家の血は泊明にも脈々と受け継がれているようだ。彼の一本気で率直で曲がったことの嫌《竜−ら》いな性格は、少年期特有のものではなく、そうあるべき土壌《ごじょう》で育《まぐく》まれたものだったのだ。 「わかった。ではもう聞かないことにする。幸い、幽谷殿は貴陽近辺にいらしているという情報はつかんでいるから、あとは自力でなんとかしよう」頭を下げかけた拍明は、ぎょっと顔を上げた。 「なんですって!?あ、あああのひとが、ここらへんまで来てる!?」 「と、聞いたが」 「げっ! マジですか!?ヤバい! まずい! しばらくはおとなしくそこらの山でもほっつき歩いてると思ってたのに!」  だいぶ語彙《ごい》が増えたな、と経枚は内心憐憫《れんぴん》とともに拍明を見下ろした。彼はまだ頑張《が人ば》っているほうだと思っていたが、やはり確実に『悪鬼巣窟《あつきそうノ〜つ》』吏部《りぷ》の鬼《おに》官吏に汚染《おせん》されている。  泊明はいつもは生|真面目《まじめ》な顔を青や赤にめまぐるしく変えていたが、やがて意を決したようにおそるおそる絳攸を見上げた。 「……こ、経紋様……あの、しばらく、一身上の都合で休暇をもらいたいんですが……」  絳攸はしばらくそんな拍明を見下ろしていたが、冷然と切り捨てた。 「許さん。吏部はそんなに|暇《ひま》じゃない。きりきり働くんだな。幽谷殿なら私たちが探しておいてやる。早く会いたいなら取引だ。なんでもいいから幽谷殿の情報を横流ししろ」吏部尚書そっくりだ、と敗者・拍明はガックリとうなだれた。際《すき》と見れば|容赦《ようしゃ》なくついてくる。こんなことでは彼への尊敬はいささかも薄《うナ》れないが、いまだに泊明は、秀麗や影月《えいげつ》がどうしてあんなに気安く絳攸と口を利《さ》いたりできるのか、よくわからない。  李絳攸は悪鬼巣窟鬼官吏たちlを束ねる、まぎれもない副頭目だというのに。  ふと、絳攸はポッリと|呟《つぶや》いた。 「……一族のために官吏に、か」          ・器・器・  サボりがばれた柳晋が慌《あわ》てて飛ぶように帰った後、慶張は包みからなにかを出した。    え 「応叫 「? .一 「そぉ。俺の叔父貴《おじき》がどっかで買ったらLtんだけどさ」  慶張が手にした巻物を広げると、見事な水墨画《すいぼくが》が現れた。 「もしぼったくられてたらコトだから、いくらくらいになるのかって、うちの醜父《おやじ》にもちこんできたんだけど、うちだってタダの酒問屋じゃん」 「ただのって……全商連認定酒問屋じゃないの。よっぽどじゃないとなれないわよ」慶張は褒l《ま》められてちょっと嬉《うれ》しそうな顔をしたが、巻物に視線を落とした。 「まーさ、酒の価値ならわかるけど、こーゆーのは門外漢なわけ。だからお前んとこにきたんだよ。一応名門だろ? それに官吏になったんだから、なんかツテもできたろ」 「……あんたねぇ、質屋《しちや》で鑑定《かんてい》してもらえばすむことじゃないの。なんでわざわざ私のとこにもってくるの。このポロ邸《やしき》見れば、そんな芸術品とは無縁《むえん》てわかりそうなもんじゃない。まさかうちの父様が実は当代一の鑑定士に違《ちが》いないとか思ってるわけじゃないでしょ」慶張はギクリと目を逸《そ》らした。そんなことは慶張だってわかっている。 「うっ……だから、その、お前に会いにくる、口実っていうか……」 「んアナニ小声でもごもご言ってんのよ。はっきり言いなさいよ」 「……う、うるせー! いいだろ別に!」 「まあ、いいけど」  秀麗は巻物を見ながらあっさり言った。確かにツテはなくもない。まず藍将軍や泊明の顔が浮《う》かぶ。それに頼《たの》めば欧陽侍即《じろう》も鑑定してくれるかもしれない。けれど今の秀麗は|貴殿《き でん》さえできないし、謹慎《きんしん》中の自分が彼らの邸を訪ねると迷惑《めlいわ・〜》になる。やはりー。 「……そうね、やっぱりここは胡蝶妓《ねえ》きんに頼むのがいちばんかしら」 「あ、そっか。胡蝶さんなら一発だな」  慶張は普通に|納得《なっとく》した。古今東西の芸事に通じ、その卓越《たくえつ》した教養の高さは公主をも凌《しの》ぐと|噂《うわさ》される絶世の美女。もともと桓娩楼自体が宝物館みたいなものでもある。 「ちょうど、胡蝶妹さんからも遊びにおいでつて言われてたし。いいわ。引き受けてあげる。なんかわかったら、あとで連絡《打人、りノl、》するわね」 「おわっ、ちょ、ちょっと待てって」 「なによ」  あっさり追い返されそうになり、慌てて慶張が袖《一てで》をつかんだ。せっかく親父に頼み込んで画という口実をもらってきたの正、しおしお帰るわけにはいかない。 「この画はついでっていうかさ、は、本当は登別に話があってきたんだよ」 「話?なに?」  慶張はなぜか威儀《いぎ》を正すように背筋を伸《の・》ばした。しかし視線はあちこちlを泳いでいる。 「あのさ」 「うん」 「そのさ」 「:‥‥.ヽ′レ一 「えーっとさぁ」 「…………」  長くかかりそうだと踏《ふ》んだ秀席は、吉輪《しよか人》の整理を再開した。  気づいた慶張が|怒《おこ》った。 「ちゃんと聞けよ!」 「話が始まったら聞くわよ。こそあど言葉しか言ってないじやないの」 「うら……焦《‖レ》らすなよ! こういうのは心の準備が必要なんだよ! 人生の一大事なんだ!」 「わけわかんないわよあんた。まあ心の準備できたら言いなさい。それまで仕事してるから」 「仕事仕事って、お前、俺より仕事が大事なのかよ!」 「こそあど言葉よりほ大事だわね」  必殺の切り札だった言葉なのにあっさり切り返された。しかも反論できない。 「くそぉ……うう、でもさ、ちゃんと言うから、ほんとマジで聞いてくれよ」  いつもとは違う様子に、秀麗は顔を上げた。 「……あのさ、俺もお前も、今年で十八になったわけだろ」 「……なんか一年前にも同じこと言ってなかった?」 「茶化す綾は。でき、俺、な、お前、に、打つ……………:上里……………………………⊥秀麗は妙に区切る話し方にも、長すぎる沈黙にも、今度は辛抱強く待った。かこーん、と庭院《にわ》で風に吹《lh》かれたのか、カラの桶《おけ》が転がって何かにぶつかる音がした。  クワツクー、クワツクゥ、となんだかよくわからない鳥の|瞬《またた》き声も聞こえてきた。  タケノコ屋さんの 「タッケノコ〜おいしいタ〜ケノコだよ〜」という売り声も聞こえた。  まだ慶張は無言。秀麗は根気強くさらに待った。  ……まさか目を開けたまま寝《ね》てるのかと秀麗が本気で疑ったとき、いきなり顔を上げた。 「おあっ! うわ、び、びっくりした……起きてたの。ものすごいタメたわわ……」l一秀麗ののけぞりにも、|覚悟《かくご 》を決めた慶張は動じなかった。彼は男らしく|叫《さけ》んだ。 「俺! 今日はお前に申し込みに来たんだ!」 「……ほ? 何も受け付けてないわよ私」  秀麗は目を点にした。慶張はぎゃっと叫んで頭をかきむしった。 「げっ!!大事なとこが抜《ぬ》けた! 申し込みって別に暑中見舞《みよ》いとかじゃなくてだな!」 「……そりゃ『申し上げます』じゃないの」 「ぬあー! 漫才《まんぎら》Lにきたんじゃわーっつーの!!申し込む.ってのは!」  つづきを言おうと慶張は真っ赤な顔で頑張《がんぼ》ったが、いちばん大事な言葉はどうしても出てこなかった。さっきので気力はすべて(無意味に)使い果たしたらしい。  ガックリと慶張は肩《かた》を落とした。 「……ありい、やっぱあとでいいや。俺も胡蝶さんとこに|一緒《いっしょ》に行くよ」 「はぁ!?」 「あとで! あとで絶対言うから!」  秀麗はさっぱり意味不明だったが、あのフラフラ落ち着きのなかった慶張が何やら真剣《し人H∵人》らしいことはわかったので、|溜息《ためいき》をついて領《うなず》いた。 「はいはい。あとでね。じゃ、ちょっと待ってて。書翰片付けて支度《したく》するから」  そうして支度を終えた秀麗は、出かける前に何かを確かめるように庭院の桜の木に寄った。  あとをついてきた慶張は首を傾《かし》げた。 「あれ、秀麗、お前んちこんなとこに桜なんてあったっけ?」 「一昨年《おしLしLし》にね、もらったのよ。だからまだ小さいでしょ」 「じゃあ今年は咲《さ》かないだろ。なんで見てんの」 「ふふん、そう見えるでしょうけどねt。ちゃんと膏が《つぼみ》あるの」  秀麗はある一点を見つめた。  ふくらんでいる小さな菅が、三つだけあることを知っている。  少しずつ少しずつ、ふくらみは大きくなって。秀麗はその時を待っている。 「咲いたら�……」 「咲いたら?」  秀麗は慶張を振《ふ》り返り、笑った。 「お花見とか、いいわよね。さ、行きましょう」  ——そうして門を出た秀麗は、そばで邸を見上げていた一人の勇に声をかけられた。 「……あー、あんた、紅秀麗だよな。朝廷《ちょうてい》でたまーに見かけたことあるし」 「あ、ほい。そうですけど……フ」  朝廷で、ということは、官吏《か人り》のようだ。  けれど知らない顔に首を捻《ひね》ると、男はあっけらかんと言った。 「俺さt、あんたにガツソと結婚《け? こん》申し込んでこいって言われたんだけど」  秀麗は理解するのに相当かかった。そのうしろでは塵張が|凍《こお》りついた。 「………………………………は?」 「……これでガツソと申し込んだことになるのかなー」  男は首を捻ったあと、思いだしたように包みから何かを取り出した。 「あー、忘れてた。じゃあ、これとこれね。順番間違えたけどいーよな。そんじゃ」  秀麗に何やら書翰を一過と、巻物をポソと手渡《て.L甲た》すと、男は名前も言わず、凍りついている二人をその場に残してタラタラした足取りでどこぞに去っていったのだった。 「………………………………い、いまのは、なに…………?」  まったくわけがわからない。まるでタヌキに化かされたよう裏と思ったとき、秀麗はいちばん気になったことを思いだした。   ーなぜ彼は、|小脇《こ わき》に金ぴかタヌキの置物を大事そうに抱《カカ》えていたのだろう……。            鎗能書線鎗 「主上はいずこにおわしまする! この羽羽を筆頭に仙洞《せ人とう》省全官吏! 〓叩を賭《と》してでも職をまっとうする覚悟にござりまするぞ! えーい、嫁御《よめご》が怖《こわ》いのは誰《だ九》でも同じでございます‖‥」羽令封の絶叫が《ぜつきょう》いつものーごとく回廊《かいろう》に|響《ひび》き渡る。タタタタ、という小走りの、可愛《かわい》い足音が風のように近づいてきたかと思うと、モコモコの羽令努が悠舜の執務室《しっむしっ》に飛び込んできた。 「む、郵《てい》尚書令、こちらに主上はおわしまするかフ」 「いえ……私もいまきたばかりですから」  |驚《おどろ》いたようにバッと振り向いた悠舞の他《ゆうしゅんほか》に、確かに人影《け�レ」かげ》はない。それでも羽令声はきょろきょろと劉輝の姿を接《さが》して首を巡《こうペめぐ》らす。本人は必死だが、周りから見ればなんとも愛らしい姿だ。 「……むむ、確かにいないようですな。また逃《に》げられ申した……」  しょんぼり肩を落とした羽令事があんまりかわいらしく、悠舜は思わず慰《なぐき》めた。 「羽令声、主上もまだお若いことですし、そう焦《あせ》らずともよろしいのでは……フ」  羽令声は小さく溜息をつき、首を横に振った。 「主上の他に、直系の血が確実に残されておられるのなら、あたくしもこんなに必死で追いかけたりはいたしませぬ。悠舜殿《どの》……どうして、蒼玄王の御代《みよ》より、七家・繚家・王家だけがこうも長く直系を維持《いじ》してきたか、考えたことはございませぬか」 「それは……」 「七家及《およ》び繚家、王家の九家は、何があっても《ヽヽヽ1ヽヽ》、直系の血を継《つ》がねほならぬのです。玉座に蒼家のほか座する者許さず、都は貴陽のほかになし。それを守るために仙洞省が存在し、ゆえに先王陛下でさえこの九家の血だけは絶やさなんだ……」  悠舜ほ目を丸くした。  仙洞省が命がけで蒼家の玉座を守ってきた話は、建国以来多々残っている。王位の授与《じ.ゆよ》と即《そJ、》位式《いしき》を執《と》り行えるのは仙洞省だけであり、それゆえに臣下の身で纂零《さんだつ》を目論《もくろ》む者は必ず仙洞省を|攻略《こうりゃく》しなくてはならない。けれどそのたびに、全仙洞官が真っ向から抵抗《ていこう》し、どれほど拷問《ごうもん》と殺我《さつり.ヽ》の憂《う》き目に遭《あ》おうと頑として屈《.\つ》さず、玉座を守りきってきたという。  今もなお、蒼玄王《そうげんおう》の血が守られているのは、仙洞省の功績が大きいといわれている。 「主上にどのような事情があるにせよ、わたくLも仕事をまっとうせねばならぬのですじゃ。どちらにせよ、主上の抵抗ももう長くは保《Ju》たぬはず……。今はわたくしどもが追い回しておりますゆえ、他の官吏は何も言いませぬが……いくらなんでもこうも長く一人も後宮に娘《むすめ》を入れぬとなると、周囲も放《ほう》っておきませぬ……。……先王も後宮に姫《ひめ》を迎《むか》えたのは三十を過ぎたお歳《レ」し》でござりましたが、あのころは国情の問題もございましたゆえ……」ふと、羽令事は何かに気づいたようにちょっとうつむいた。 「……思えば、先王陛下と相《一てう・》が少し似ておりまする……。……おそらくは主上もまた……」  最後の|呟《つぶや》きは、羽令声のもごもごとした口のなかに消えた。 「羽羽様……蒼玄王の血が絶えることに、何か格別の意味があるのですか?」  羽令努は、真っ白な|眉毛《まゆげ 》の奥から、じっと悠舜の顔を見上げた。職業上、彼は観相もする。 「……悠舜殿、|宰相《さいしょう》とはいえ、|貴殿《き でん》がすべてを背負う必要はどこにもござらぬ。それを心配するのは仙洞省及び各家当主の役目にござりまする。貴殿は貴殿の職務を果たされよ。……さすれば、時至れしそのときに、貴殿の望むものもその掌《てーりひら》に降ってくるはずですじゃ」まるで予言のような言葉に悠舜が息を呑《の》んだ瞬間、《しゅんかん》羽令翠は元気一杯《いっぱい》に拳を《こぶし》つきあげた。 「では、さらばですじゃ! なんとしてでも主上に嫁御をー!」  そうして、羽令声は小さな体で風のように去っていったのだった。  ……タ彿タタ、という足音が聞こえなくなってしばらく、悠舜は机案《つくえ》に向き直った。 「……だ、そうですよ、主上」  机案の下から、ガゴン、という音が聞こえた。どうやら出ようとして頭をぶつけたらしい。  しばらくして、額を押さえながらまるでコソドロのごとく劉輝が出てきた。ちょっと涙目《なみだめ》だ。 「そなたの机案を占領《せんりょう》して悪かった」 「いえ……」  悠舜は苦笑いした。いきなり飛び込んできて 「隠《わ.J、》れ場所隠れ場所!」と騒《きわ》ぐ劉輝に、|椅子《いす》から立って机案の下を進呈《しんてい》したのは悠舜のほうである。 「別に昌…絶対結婚しないとはひとことも言って事ないのに…⊥      かたむふて腐れたように何やら備え付けの茶器で茶を掩れ始めた劉輝に、悠舜ほおやと首を傾けた。 「では主上、どなたかに懸想《けそう》なさっておいでなのですね」  動揺《どうよう》した劉輝は、思わず湯をこぼした。その様子に、悠舜ほ|微笑《ほほえ》んだ。 「……陛下、欲しいものがおありになりますね?」  悠舜の|優《やさ》しい問いに、劉輝はうっかり額《うなず》いていた。 「挙げてみてください。いくつでも構いません。誰にも内緒《ないしょ》にいたしますから」  劉輝は、今まで誰にも言わなかった『欲しいもの』を、指を折ってボツポッ白状した。それはもう、一つきりではなかった。悠舜独特の、心に沌《し》みるような声のせいもある。けれどなんのしがらみもない悠葬には、取り繕《つくろ》うことなく|馬鹿《ばか》正直にしゃべってしまった。 「……贅沢《ぜいたく》だとわかってるのだが、いつの真にか増えてしまったのだ……」  最後にしょんぼりとそう呟いた劉輝に、悠舜は微笑んだ。 「わかりました」 「え」 「なんとかしましょう」  劉輝は目を点にした。 「な、なんとかって」 「|大丈夫《だいじょうぶ》です。うまく|頑張《がんば 》れば芋《いも》づる式につりあげられると思いますから」 「……芋づる……」  悠舜は窓に首を巡らせた。その遥《はる》かな向こうに、彼が十年過ごした茶州がある。 「……陛下、私も、昔はあまり多くを望むまいと思っておりました」  ふと劉輝が顔を上げれば、しなやかな柳《やなぎ》のような意志を秘《ひ》めた、悠舜の瞳《ひとみ》にぶつかった。 「足を傷つけられてから、人生を歩いていくことまで、少し、難しくなったように思えて……誰かには当たり前の幸せが、自分には当たり前でなくとも仕方がないと、心のどこかで思っておりました。手に入らないものは、最初から望むまい……大切なものはそのままに、壊《こわ》れないょうに棚《たな》にそっと飾《かぎ》って、見ているだけで構わないと……」劉輝の喉《の・ご》が、かすかに上下した。 「でも主上、私は結局聖人ではなくて……愛する人に、そばにいてほしいと思ったり」 「…………」 「大切な友人に、お前だから必要だと、言ってほしいと思ったり」 「…………」 「あきらめるべきだとわかっていても、どうしてもあきらめされなかったり……しました」  悠舜は、自らの掌に視線を落とした。まるでそこに、見えない宝ものがあるかのように。 「……それは多分、とても大切で、必要なものなのです。木々や花に天水《あまみず》が必要なように」  主上、という優しい声が、うつむいた劉輝の心をそっと紛《髄》らした。 「私の役目は、主上の紺住《ま叩▼.曳−》です。ダメなものはダメとはっきり言いますが、あきらめなくてもよいものを、最初からあきらめろとは申しません。こっそり、頑張ってみましょう」 「……余ほ王なのだ」 「ええ。そして私は、あなたのl望みを叶《かな》えるのが仕事です」劉輝はずるずるうつむき、ついに机案にぺたりと額をつけてしまった。 「あなたの望みを叶えましょう、銭が君。手放してばかりのあなたが、いつかカラッポになって、消えてしまわないように」  劉輝は小さく息を吸った。ずっと、不思議に思っていた。 「……どうして……そなたは、そんなに優しくしてくれるのだ?」  その言葉に、悠舜は|驚《おどろ》いたように目を膣《みは》り、どうしてか少し|寂《さび》しそうに笑った。何かを言いかけるように口を開きかけるも、それも|途中《とちゅう》でつぐんでしまう。 「悠舜殿?」 「いえ……それでは陛下は、どうして私をあっさり宰相にしたのですか?」 「うん?そなたが余の好みだったからだ」 「…………。………………は?」 「即位式《そくいしき》のとき、そなたに怒《おこ》られたろう」  劉輝は秀麗を思いだしながら、ポソボソと白状した。 「余はどうも、優しくても怒るときはビシッと怒ってくれる者に弱いらしいのだ。それでいえば、悠舜殿はまさしく余の好みのど真ん中に的中していたのだな」あんまりにも裏表なく好きだと告白された悠舜は笑うしかなかった。 「さて……別段私は、主上に特別優しくしているつもりはないのですけれど……」  悠舜はどこか物思わしげで、それでいて困ったような、深く長い|溜息《ためいき》をついた。 「……主上を見ていると、少し、昔を思い出してしまいますね……」  悠舜のほうを向かなくても、彼が微笑む気配が伝わってきた。  そのまま、優しい沈黙《ちん・もく》が落ちた。ややあって、落ち着いた劉輝は首をコテンと悠舞に向けた。 「……わかったぞ。どうして紅尚書が《しよ、つしょ》そなたを大好きなのか」 「はい?」 「そなたは、少し邵可に似ている」 「私が? まさか。昔は怒って黎深を殴《なぐ》ったこともあるのですよ」 「−な! 殴った!?紅尚書を!?」 「ええ、あんまり頭にきたものですから、つい……。さすがに手が出たのはあれが最初で最後ですが、私が怒るといつも先に頭を下げてくるのは黎藻や鳳《ほう》……奇人のほうで、たいてい連れだって一緒に謝りにくるのが常でした。邵可様に似てるなどとんでもありません」誰それ、と劉輝はあんぐり口を開けた。何だか悠舜のうしろに後光が見えてきた。  そのとき、バタバタと足音が聞こえた。途端《とたん》、劉輝がビクツと反応する。悠舜でも明らかに羽令事ではないとわかる昔だったが、精神的に相当追いつめられているらしい。  何だか悠舜は感慨《かんポい》深くなった。十年来の上司は精神的というコトバとはまったく無縁《むえん》の、ある意味好き放題野放図上司だったので、何だか王が子兎《こうきぎ》に見える。 「……主上、絳攸殿《ごの》や藍将軍と一緒に、何日か息抜《いきぬ》きに街へおりてきても構いませんよ?」 「……。なに!?」 「ちょうど今日明日と公休日ですし。そろそろ本格的に幽谷殿を接《きが》さなくてはなりません」  劉輝の表情が少し引き締《し》まった。 「私もあのあと凛に訊《毒し》いたのですが、どうも、主上直々に足を運ぶ必要がある方のようです。さすがに一日丸ごとは無理ですが、そうですね……私が午後から書翰《しよかん》に目を通しますから、午《ひる》過ぎからなら、抜け出してもいいでしょう。私の権限で裁可が下せるものもありますし。ただし、夕方には必ず帰ってきて仕事をしてくださいね。|覚悟《かくご 》してください。優しくないですよ」劉輝は顔を輝《かがや》かせた。 「うーさま」から逃《こ》げられるなら百万金払《はら》ってもいい。 「うむ! では絳攸と楸瑛のところへ行ってくる!」  立ち上がり、ふと、劉輝は心配そうに悠舜を顧《かえり》みた。 「そういえば、専従護衛官を断ったと聞いたが」 「ええ。必要ありません。まだ誰《だれ》かに暗殺されるような大業もしておりませんし」  悠舜は羽扇《うせん》の羽根を、弄ぶ《もて品そ》ように指先ですいた。劉輝が反駁《はんばノ、》する前にぽつんとつづける。 「……それに、多分、|大丈夫《だいじょうぶ》だと、信じてみたいこともありまして」 「え?」 「いいえ。本当に、大丈夫です。あまり臣下を甘やかしませんように」 「……。……さっき、足を傷《ヽ》つ《ヽ》け《ヽ》ら《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》と言ったが……」  劉輝の耳聡《みみぎと》さと、自分の迂聞《うかつ》きに、悠舜ほ苦笑いした。  もうこの足に苛立《いらだ》つことはないけれど。思いだすときは少しだけ、息を吸うのが難しくなる。 「……昔のことです。どうか、お気になきらずに」  睡毛《まつげ》を伏せた悠舜は、|微笑《ほほえ》んで、ただそれだけを告げた。    量題雷管▼食のタヌキ、銀のタヌキ  秀麗と慶張は、ふらふらと無言で桓娩楼までの道を歩いていた。  ちょうど、西施橋《せいLさよう》という橋にさしかかったあたりでようやく頭が働きだしてきた秀麗は、確《かこ》認《にん》の意味でボソツと訊いてみた。 「……ね、ねぇ慶張、さっきの……あんたもきいてたわよね……夢じゃないわよね」  夢でもタヌキに化かされたわけでもない|証拠《しょうこ》に、秀麗の手には害翰と巻物が残っている。  しかし慶張は|呆然《ぼうぜん》としたまま答えない。秀麗は頭を整理するため、それでもしゃべった。 「……なんだってあのひと、金のタヌキもってたのかしら……」 「知るかー!」 「ちょっとなんでいきなり怒りだすのよ!」 「う、う、うるせー!」  ちょうどそのとき、貴陽名物の一つでもある松涛河《し上号フト三フカ》の放水がはじまった。西施橋の下を流れる松涛河は、水門により、時刻によって水かさが増減することで知られている。それまで川縁《かわべり》でポカポカ日向《ひなた》ぼっこをしていた老人や犬が、よっこらしょと腰《こし》をあげて上にあがっていく。  上流から次第《しだい》に轟《とどろ》きが聞こえ、水の|壁《かべ》が一気に押し寄せる。  そのとき、向こうから誰かがぎょっとしたように橋の上にいた秀麗と慶張のほうに|叫《さけ》んだ。 「うおっ!?おい兄ちゃん橋桁《はしげた》で何ボーッとしてる! 起きろ! 危ねー」  秀麗と慶張が、えっと思った瞬間だ《しゅんかん》った。  ビーん、という音ともに水の壁が橋桁の間を走り抜けた。そして。 「ヘアん?……おわ      ‥.つつつ!?」  ちょうど秀麗と慶張が仔《たたず》む橋の真下から《ヽヽヽヽヽヽ》、若い男の悲鳴が聞こえた。 「ぎゃ        …………」  水の流れとともに、男の悲鳴も流され、樹《こだま》のように遠ざかっていく。 「おいっ! 兄ちゃんが一人流されたぞー!」 「かう! どこのバカだぁ!?べらぼうめいつ」 「助けろー! 死ぬぞー!」 「下流でせきとめろー!」  秀麗と慶張は|呆気《あっけ 》にとられた。……誰かがボケッと橋桁にいて、流されたらしい。  どこのトンマだ。  二人はそう思った。  聞こえてくる声からすると、どうやら流された誰かほ途中で漁師が張っていた網に引っかかって助かったようだ。二人は顔を見合わせると、トボトポと疲《つか》れた様子で歩き出した。 「……とっとと胡蝶さんとこ行こうぜ……」 「そ、そうね……助かったみたいだし。……ていうかなんで流されたのかしら……」  何だか今日はわけのわからないことが立て続けに起きる、と秀麗は思った。          ・器・券・  楸瑛は劉輝のところへ行く途中、ふと立ち止まった。ピカピカに磨《みが》き抜かれた飾《かぎ》り窓の瞭璃《ょり》が、漱喋の塵をくっきり映し出す。彼は披潤のなかの自分が凧《.ふ》いている剣《!?ん》を見つめた。  そのl剣鍔《けんつぼ》に彫《ほ》られているのは、劉輝から下賜《力L》された�花菖蒲《は左L上でブバ》″の花紋《かも人》。                         ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  それは、士に絶対の忠誠を誓った者だけが受ける証。  ……少しずつ、少しずつ、心に澱《おり》の」ように沈《しず》んでいく想《おも》いがある。  自分は、もしかしたらー! ・。  そのとき、突《 「−》き刺《上−》すような視線を感じて楸瑛は掛り返りー�ギクリとした。静蘭が、回廊《かいろう▼》の向こうから、|値踏《ねぶ》みをするように冷ややかな視線で楸瑛を見つめていた。 「楸瑛!」  別方向から聞こえた弾《はず》んだ声に、|凍《こお》りついていた刻《とき》がほどけ、楸瑛はバツとした。 「……主上、と、絳攸」 「とってつけたように言うな」  |憮然《ぶ ぜん》としたように絳攸が|大股《おおまた》で近づき、劉輝は 「うーさま」に追いかけられるこの頃《ごろ》では|珍《めずら》しい、頭に満開の花が咲《さ》いたようなルソルソとした足取りで寄ってきた。  棟瑛は意識して、いつもどおりの笑顔《えがお》をつくった。 「どうしました。ご|機嫌《き げん》ですね、主上」 「うむ。悠舜殿から許可が出てな、午後からなら『うーさま』から逃《に》げて……げふん、違《ちが》った、城下に降りて、幽谷殿を捜《きが》してもいいと! だから行こう、今すぐ行こう」その全開で喜ぶ様子に、楸瑛ほ作り笑いではない、本物の稟みを浮かべた。 「わかりました。お供します」  そのとき、劉輝は回廊を渡《わた》ってやってくる兄の姿も発見して、手を振った。 「静蘭、そなたもくるのだ!」 「ほい、ご|一緒《いっしょ》いたします」  静蘭はいつもどおりの|穏《おだ》やかな笑顔で額《うなず》いた。  まるで、楸瑛が見た表情など幻《凰ぽろし》だったかのように。 「幽谷殿は下街にいるのかい?」  城下を歩きながら、楸瑛はそばの絳攸にそう訊《たず》ねた。 「泊明を問いつめたらそれだけ白状した。貴陽にいるとしたら下街だと」 「へーえ。それだけでもよく白状したね。碧幽谷に関しては、碧家は本当に徹底《てってい》して水も漏《も》らきぬ情報管理をしてるんだよ。仕事の依頼《いらい》だって、まず仲介者が《ちゅうかいしゃ》仲立ちするくらいでねぇ」 「……みたいだな。ちょっと脅《おど》しすぎたか……」  絳攸はちょっと反省した。新人二年目だというのに、悪いことをした。  下街ということで、楸瑛はすぐに胡蝶を思い|浮《う》かべた。 「何はともあれ、桓蛾楼に行けば胡蝶が何か情報をくれるかもしれない。あの碧幽谷に『仕事』をしてもらったら、間違いなく歴史に残りますよ、主上……主上?」きょろきょろ辺りを見回す王は、さっきまでと違って眉間《ふけ人》に敏《しわ》を寄せた顔をしている。 「どうしました、主上?さすがに街中までは『うーさま』も追ってきませんよ」 「……いや、まあ、そうなのだが、……ここらで一時しのぎでもなんでも何か対策のばつも考えないと、本当に近いうちに追い込まれる……」劉輝はガックリと肩《かた》を落とした。 「……楸瑛の父君もたくさんの女人《によにん》を妻に迎《むか》えているのだったな」  楸瑛はコホソとわざとらしい|咳払《せきばら》いをして、絳攸と静蘭の冷たい視線をかわした。 「ま、まあそうですが……父はちょっと特別で……博愛主義といいますか」 「紅家は邵可様も黎深様も玖琅《くろlつ》様も一人だってのに、藍家は節操なしが家系か」  楸瑛はちょっとムッとした。 「ひとくくりにしないでくれ。兄の妻は一人しかいない」 「|自慢《じ まん》するようなことか! それが|普通《ふ つう》なんだ! 一静蘭《せい∴∵人》も深く頷いた。 「一般庶民《いりばんしよみん》には当然の理《ことわり》ですね�……まあ、お金がないからという意見もありますが……」  劉輝はふと街を見回してみた。目につく限り、どこもおかみさんほ一人きりだ。……そういえば、下街におりて妻をたくさんもつ者というのを聞いたことがない。 「静蘭は、その……もし、もし、そなたが王……として生まれついたら」  チラリと向けられた告《とが》めもような兄の視線に、劉輝は慌《あわ》てた。 「もし! だ。その、奥さん、を、たくさん迎えていた、か?」 「……まあ、そのときになってみないとわかりませんが」  静蘭は自分の母も、劉輝の母もはっきりと覚えている。他の妾妃《しよう・ひ》たちも。  ……正直、秀麗や薔君《しよ・ツくん》奥方に出会わなかったら、女性に対してどういう振る舞《ま》いをしていたかわからない。少なくとも無条件に敬意を払ったりほしなかったろう。  父王の『寵愛』《らよーフあい》は、子供ができるまでだった。だから六公子それぞれ母が違った。妾妃たちを、ただ男児を産ませるためだけに愛したとしか、今の静蘭には思えない。それを証明するかのように、父は最後まで后妃《こうけー》を選ばなかった。だからこそ、どの妾妃も不安だったのだろうと思う。王の愛しか練《よすが》はなかったのに、王の心がどこにあるか最後までわからなかった。  王として、子を残すために多くの妾《つ主》をもつのはただの責務で、愛など何の意味もない−以前の静蘭ならそう切って捨てたろうし、今も理解はできる。ただ一秀麗と、邵可と、奥方と過ごした|優《やさ》しい日々を知っている静蘭には、もう『愛など何の意味もない』とは思わない。 「……やたらと迎えて、ろくなことにならなかった前例は、いくらでもありますからね」 「……うむ……」  劉輝はしんみりと肩を落とした。どう考えても母は幸せではなかった。自分たちも、あんまり楽しい子供時代は過ごせなかった、と思う。そのすべてを父や母のせいにするつもりはないけれど。……母の狂乱《きょうらん》の原因、父の寵愛が薄《うす》れたという言葉は今も耳に残っている。  劉輝がどうしても慎重《しんちょう》になるのは、昔の|記憶《き おく》が薄れていないからでもある。 「……だいたい、紅尚書《し上三ノしょ》でさえ一人しか奥さんいないのに、なんで余ばかりイジメられ……」  劉輝はバツとしたように立ち止まった。 「……主上?」 「……そうか、そうすれば……」  ぷつぷつと何事か|呟《つぶや》き−ややあって会心の笑みを浮かべた。 「ふ、ふふふ、よし、うーさまめ、ぎゃふんと言わせてやる……!」          ・器・希・ 「いらっしゃい、秀麗ちゃん。くるのを待ってたんだよ」  転戦楼を訪ねた秀麗は、貴陽一の妓女《ぎじょ》の満面の笑みと|抱擁《ほうよう》で迎えられた。 「お帰り」  ただそれだけを言ってくれた胡蝶に、秀麗はポッとしたように抱《だ》きついた。 「……ほい」 「おや、三太《き,んた》も一緒かい。……ははーん、なるほどね」  胡蝶はなぜか、意味ありげな笑みをチラリと浮かべて慶張を見た。 「それにしても、なんだかそろって景気の悪そうなカオしてるじゃないか」  秀露と慶張は 「景気の悪そうな顔」を互《たが》いにチラッと見た。……本当だ。 「……はあ、なんだかここにくるまでにおかしなことがイロイロとあって……」 「おかしなコト?」 「いえ、それはいいんです。なんだか今晩はタヌキの夢を見そうですけど。ところで胡蝶妓《ねえ》さん、私に会わせたい人がいるって文《ふみ》に書いてありましたけど……」 「いや、まあ、会わせたいっていうか、会いたがヅてるっていうか…………そうさねぇ」胡蝶は|珍《めずら》しく歯切れの悪い口調でぷつぷつ呟くと、困ったように慶張を見た。 「……まずは三太の用を先にすましといたほうがいいだろうね。三太まできたってことは、あたしに何か用があってきたんだろう?」 「あ、ほい。慶張のおじさんが買ったっていう画《え》の鑑定《かんてい》をしてほしくって」胡蝶の目がふと険しくなった。 「……だしてごらん」  ——渡《わた》した画をじっくりと眺《なが》めた胡蝶は、少し苛立《い・りだ》たしそうに|吐息《と いき》をこぼした。 「……ニセモノだね」  開口一番でてきた言葉に、慶張は目を丸くした。 「かなりよくできてるけど、贋作《がんさく》だ。あんたのおじさんとやらは|騙《だま》されたね」  確かにこの画ほ秀麗に会いに来るための口実に過ぎなかったが、実際に金を払って買ったものだ。正確な価値を聞いてきてくれと言われたのは本当だ。それが価値云々《うんぬん》以前に——1� 「−贋作!?」 「残念だけどねぇ……」胡蝶はちょっと首を傾《かたむ》けた。キラリと目を光らせる。 「おじさんはどのくらい払ったってフ」 「・…確か、金三十両って……」  聞いていた秀麗は耳を疑った。・1——金三十両!? 「この巻物一つに金三十両!?」 「いや、本物だったら、確かにそれっくらいの価値はあるんだ。……本物ならね」  胡蝶は巻物を手に取り、つくづくと眺めた。 「イイ出来だよ。これならたいがい騙せるだろう▼。画商でも見分けられるかどうか……」  胡蝶は長い睫毛《圭つげ》を物憂《も甲う》げに|隙《すき》せ、ややあって何かを決めたように顔を上げた。 「……実はね、秀麗ちゃん。ここだけの話、ここひと月ふた月、こういった贋作がやけに出回ってるんだよ」 「え!?一 「お上に知れるとちょいとマズイ話だが、下街にもね、贋作づくりを生業《なりわい》にしてるヤツは何人かいる。けどね、どいつに当たっても自分じゃないっていうのき」貴陽親分衆の要請《ようせい》で、胡蝶がこないだ一日かけて鑑定した画の大半が、贋作だった。しかもおそろしくよくできていた。下街の贋作師には、親分衆にまで贋作を売りつける度胸はない。 「……どっかの誰《だ慮l》かが贋作で得た大金は行方《ゆ′1え》知れず、裏街《うら》じゃ回ってない。つまり、別の場所に流れこんでる。1あたしらでっかめないとなると、黒幕にいるのは多分……」秀麗はゆっくりと目を見開いた。 「……貴族?」 「それも、金持ちのね。イイ出来の贋作ってのは、材料もそれなりのが必要だからね。それに、この贋作師、相当の腕前《うでまえ》だよ。ここまでの腕をもってるヤツ、フラフラさせとくとあとで大変なことになる。ある程度目利《めき》きの親分衆だって騙しちまったんだからね」胡蝶は柳眉《りゆうげ》を寄せると、|溜息《ためいき》をついた。 「お貴族様が相手となると、悔《くや》しいがあたしら正は手が出ない。資金の回収もあきらめちlやいるけど……ただ、引っかかるんだよねぇ。うまいことやりすぎてるっていうかさ」 「……え7・」 「モノがモノだけに、騙されたヤツはある程度の金持ちや貴族で、カタギの|素人《しろうと》衆の|被害《ひ がい》は少ない。だからあたしら貴陽連もそれほど血眼《ちまなこ》で捜《きが》しやしない。けど、やっぱりモノがモノだけに、金をもってるヤツはボンと大金を出す。……相当の金が、どっかに絶対に流れこんでるのに、静かなもんじゃないか。……計算されてるって気がするんだよ。それに、その金を使わずにためこんでるとしたら、そいつは何に使おうってのかね……」秀麗ほ慶張が持ちこんできた画を眺めた。 「…⊥ニ太、これ、ちょっと貸してくれるフ⊥ 「え? ああ、いいけど……まさかお前」 「調べるのは私の勝手だもの。おじさんだってお金、戻《�もご》ってきたほうがいいでしょ?」  そのとき、室《へや》の扉が《とげら》勢いよくひらいたかと思うと、誰かがつかつかと入ってきた。 「胡蝶! 遅《おそ》い遅いと思っていたらー独り占《ご》めしているなんてずるくってよ!!」  見知らぬ声に、秀麗は 「へフ」と顔を上げた。  慶張が思わず 「おわ。美女」ともらしたくらい見事な容姿をしている。歳《ト】し》は二十半ば、くるくると波打つ長い髪《かみ》を高い位置で一つにくくり、卵形の小さな輪郭《りんか′1》にすっきりとおさまる、勝ち気そうな目鼻立ち。秀麗もあちこちの妓楼《ぎろう》で賃仕事をしてきたが、見たことのない女性だった。それになんとなく、妓女という感じもしない。 「わたくLにも早く|紹介《しょうかい》してちょうだい!」 「あーあ……きちまったかい……。はいはい」  胡蝶は苦笑い半分、あきらめ半分の複雑な表情で笑った。 「あー、会わせたい相手ヅてのは彼女のことでねぇ。……あたしの古なじみなんだけど�」 「え? 一 「あなたが紅秀廣ちゃんね?」  謎《なぞ》の美女は胡蝶の紹介を待たずにスッ飛んでくると、日を輝《かがや》かせて秀麗を上から下まで熱心に見つめー破顔した。 「まああ! なんてかわいらしいの! 思っていたとおりだわ!」  目を点にする秀麗に構わず、謎の美女はぎゅうっと豊かな胸に秀麗を抱《だ》きしめた。見ていた慶張はうっかり 「羨ま《うらや》しい」と|呟《つぶや》き、胡蝶は|呆《あき》れたように額を押さえた。 「歌梨《かl−ん》……いいかげんにおしよ。まったく、ひと月ぶりに上から降りてきたと思ったら……どこで秀麗ちゃんの|噂《うわさ》を聞きつけてきたんだいほんとに……」 「え!?上!?」秀麗と慶張は耳を疑った。今のこの開店前の午《けlる》の時間、『上h.にいるのは、泊《と》まりがけで遊ぶ『客』しかいない。しかし垣娘楼の『客』とは−。  胡蝶は|珍《めずら》しく、何と言っていいやらわからない顔をした。 「……歌梨は何年かにいッぺん、たまtにきては長っ尻《ち・り》でこの転娩楼を宿屋代わりに泊まってく、変わった女でね……室を長期間|占拠《せんきょ》されて迷惑《めいわく》っていうか」 「何かおっしゃって?胡蝶」 「いーや、なんでもナイさ」そのとき、歌梨の目が、なにげなく広げていた慶張の『贋作Lに留まった。  �沈黙《ちんもく》ののち、彼女は血相を変えて|叫《さけ》んだ。 「……な、な、なんてこと!!」 「は? どうしたんだい歌梨」 「お室にこもりすぎたわ! 胡蝶! わたくし、ちょっと出かけてくるけれど、あとでちゃんとお宿代ほ払《はら》いましてよ。わたくしのお室はそのままにしておいて!」  叫ぶと、胡蝶が何を言う|暇《ひま》もなく、歌梨は室から駆《か》けだしていったのだった。  秀麗と慶張は目を点にした。 「胡蝶さん、今の女の人……ど、どうしたんでしょう」 「……いや、あたしもたまにわかんないときがあってね。だが歌梨はあたしなんか足下《あしもと》にも及《およ》ばない目利きでその筋じゃ有名なんだよ。……あの贋作の何にあんなに|驚《おどろ》いたのやら」胡蝶も首を傾《かし》げた。この贋作がどうかしたのだろうか。それにしても——�� 「……短くない付き合いだが、歌梨のあんな慌《あわ》てた様子は見たことないねぇ。�うん?」手下の一人がきたことに気づいて、胡蝶は顔を上げた。 「なにかあったかい〜」 「はあ。それが、ついさきほど松涛河の放水で流されたマヌケがいたらしいんですが」  まさに現場に居合わせた秀麗と慶張は、思いだして顔を見合わせた。 「うちのモソがたまたま救助にいあわせたらしいんですが、どうやらその野郎《やろう》、秀麗お嬢さ《じょう》んとこの地図をもってたようで……姐《あね》さん、さっき秀麗お嬢さんがくるって喜んでたでしょう。それを覚えてた舎弟《しやてい》が、へソな気いきかして桓《う》蛾楼《ち》に運んできちまったんですよ」 「え!?流されてたのって、う、うちのお客さんだったの!?」  秀麗は|仰天《ぎょうてん》した。助けに行くどころか、かなり素通《すどお》りしてきてしまった。  しかし手下は|眉《まゆ》を寄せたまま、ずずいと秀麗に近寄った。 「!!秀器お嬢さん……金のタヌキ置物もってるトンマ野郎に心当たりありやすか? もし紅師《せんせい》ともども、つけ狙《ねら》われて困ってるとかなら、今すぐ息の根止めて川に返しますが。今ならまだ気絶したまんまですから、おちゃのこさいさいですよ」秀麗は二の句が継《つ》げなかった。慶張も唾《つば》を飲み込んだ。……金のタヌキ……。  ヲ…‥えーと……心当たりは……なくもないので……あの、一応、助けてあげて下さい……」  秀麗はかろうじてそれだけ言った。  謎は、また一つ増えた。  ——なぜ彼は橋桁《はしげた》なんぞで流されたのか。 (なんかの話のネタにありそうじゃないの……)  秀麗はハトが飛びかっているような頭の中で、ぼんやりとそんなことを思った。  |呑気《のんき 》そうに気絶したまま運ばれてきた男は、やはりというか、出掛《でが》骨に秀麗にわけのわからないことを言って去っていった男であった。気絶しても金のタヌキを抱《・かカ》えている。 「……秀麗ちゃんに、|求婚《きゅうこん》Lにきただってフ」  胡蝶は笑いたいような呆れたような声を出した。 「はあ、聞き|間違《ま ちが》いとか人違いでなければ……多分そんなことをいってたよーな……」  秀麗は劉輝と茶朔洵《さくじゅん》を思い出した。人生三人目の求婚者はだいぶ前例と違うようだ。 「ふーん、そんじゃ、|優《やさ》しく起きるのを待っててやるこたないね。これで充分だ《じゆうぶん》よ」  胡蝶は意味ありげに慶張を見たあと、寝《ね》ている男の額を遠慮《え人りよ》なく指でバチソとはじいた。  どんぷらこと川に流され何を見たか知らないが、目を開けた男が真っ先に呟いたのは1−� 「……う!…‥生まれ変わっても魚にはなりたくね!…‥あのギョ? R結構こえーよ……」  どこだかわからない様子で顔を巡《めヽ、》らしていたが、秀鹿の腰を認めると 「あ」と声を上げた。 「ピーしてきてくれなかったかなt、君。あれで一応任務完了《かんりょう》で家に帰れるはずだったのに」 「……は?」 「渡《わた》したじゃん。文《ふみ》。門の前で。巻物と一緒l《いつしょ.》に」  そういえば手提《てき》げに入れたまま、……すっかり忘れていた。慌ててとりだして読んでみる。 「……77?」  ますますわけがわからなくなった。西施橋という文字は確かにあるが、そもそも文のいわんとするところがわからない。なんだかイロイ? 古典の引用とかもしているようだが——�−も男は起き上がると、やっぱりタラ空フとした様子で指を折っている。 「まー確かにうっかり順番逆になっちゃったけどさt。でもコレでいいはずだろ。恋文《こいぷみ》・贈《おく》り物・待ち合わせ、で結婚の申し込みガツソと完了」  秀露は目を点にした。……なに〜 「…………………………恋文って、これ〜」 「なんだよ、君、頭いーんだろ? わかるだろ!?すげぇ風流でオモムキのある恋文じゃん」  秀麗が文面を見直そうとしたら、その前に慶張と胡蝶にスゴイ勢いで文を横から|奪《うば》われた。  �しばらくして、読み終わった胡蝶はバソバソと手近な卓子《たくし》を叩《たた》いて笑い転げた。 「……ふっ、あほ、あははは! ケツサク……つ! こりゃあ藍様でも|真似《まね》できないねぇ。斬《ぎん》新《しん》すぎる。あはははは、これほど笑ったのは久々だよ……!」逆に慶張は至極真面目《しごくまじめ》に『恋文』を読んでいた。 「……でも胡蝶さん、これ、なんか読めないくらいムツカシイこと書いてありますけど」 「バツカだねぇ慶張、もちっと勉強おし。そのムツカシイ部分てのは、あちらこちらの古典の切り抜《血》きなのさ。まあわかりやすく言うとだね……『春はあけぼの、カエルぴょこぴょこむぴょこぴょこの季節になりました。両家の運命に引き裂《き》かれて幾星霜《いくせいそう》。なぜ君は君なのか。西施橋にて、君は僕の太陽なので真南にかかったころに、いつまでもお待ち申し上げておりまする。命短し恋せよ|息子《むすこ 》と申しますゆえに、愛ゆえに我あり申す』……ダメ、もう笑いが」  あまりのめちゃくちゃさ加減に再び笑いがぶり返した胡蝶は、ひたすら震《ふる》えて笑いつづけた。  もともとの出典をすべて知っているがゆえに、余計笑いが止まらない。今は亡《な》き文豪《ぶも】う》たちも、まさかこんなふうに『引用』されて『恋文』になるとは夢にも思わなかったろう。  秀麗は男に向き直った。訳されると余計切ない。 「……何を以《もつ》て恋文っていうの!?カエルぴょこぴょこむぴょこぴょこのナニが!」 「ナニヲモッテとか言うなよ! カエルは定例文にのってたんだよ。季語だと思って。初めて書いたんだからちっとくらい目こぼししろよ! くそ上。だから頭の良い女ってヤなんだ」 「そんな問題じゃないでしょう!」  同時に、秀寮はハッと気づいた。……まさかあの大事そうに抱えている金のタヌキ……。 「……え、じゃ、じゃあ、それが、お、贈り、もの……?」  すると、青年は口を尖《とが》らせた。 「ちげーよ。このタヌキは俺の。贈り物は巻物。出掛けに露天商《ろてんしょう》が勧《すす》めてきたから買ったの」 「……あ、そ、そう」  秀麗はちょっとホッとした。金欠病の邵可邸《てい》ではいつでもどこでもなんでも喜んで受け取る用意はあるが、……あの金のタヌキをもらlつたら|妙《みょう》にフクザツな気になりそうである。 「これをもってれば、女の子にモテモテあるヨ〜つていう▼からさ。即決《そつけつ》で」 「…………へ!………⊥鰯《いわし》の頭も信心からというし、金ぴかタヌキも彼が信じていれば叶《かな》うかも知れない。すると、彼は気をよくしたのか、得意げに耳をかきやった。そこにあったのは!。 「で、これが女の子がメロメロあるヨ〜つていう耳飾《みみかぎ》りで、この腕輪《うでわ》が男前度五割増っていう仙人《せんにん》の腕輪でt、この指輪がオトコの眼力《メヂカテ》、色・艶《つや》十三倍になるっていうヤツでt。十三倍っていうびみょーな数字が信憑《しんぴよう》性あると思わない?」  耳、腕、指には、今度は金でなく銀のタヌキがそれぞれちんまりくっついている。 『あなたが落としたのは金のタヌキですか、銀のタヌキですか』  そんなお伽噺が《とぎぼなし》あった気がする。……タヌキじゃなかった気もするが、今の秀麗はゆっくりとふくらんでいく堪忍袋《かんにんぷノ1ろ》をおさえるのに必死だった。金銀タヌキは認めたかないが本物だ。 「で、これがとっておきー桓蛾楼の胡蝶も一発で陥《お》とせる、不思議な首飾り!」  じゃーん、という効果音つき喜源1日分)で胸から取り出した白金のタヌキが先端《せんた人》で揺事る豪華《ごうか》な首飾りを見た瞬間、《しゅんかん》秀麗のなかでナこかが切れる音がした。ちなみに胡蝶はさらに吹《;》きだし、うつぶせて笑いまくっている。 「あなた……どこのトンマなお坊《ぼつ》ちゃまだか存じませんが……」  ぶるぶる震える。|騙《だま》されたのは仕方ない。口のうまい商人はいくらでもいる。が。 「ぼったくられて騙されたことくらい、最低気づきなさいってのよ   っっっ!」 「なにい?」  しかし彼はしょげるどころか、自信満々に胸を張った。 「俺は騙されてなんかない!」 「ばかっ! こんな金のタヌキや銀のタヌキで胡蝶配さん肝とせるわけないじゃないの! そんなんで陥とせたら|今頃《いまごろ》この転戦楼はタヌキで埋《う》もれてるわよっっっ。ていうか『これはなになにアルヨ〜』なんていうあやしすぎる商人からモノを買うこと自体間違ってるの!! 大体、なんで橋桁《はしげた》なんかで流されてるわけ!?」 「だって恋文で、待ち合わせで、構っていったら、橋桁だろ! なんで上にいるかな、君」  胡蝶はすぐにピンときた。吹きだすのを堪《二らl》えて横を向く。  確かに有名な昔話で、橋桁で待ち合わせした恋人同士の話はある。約束の場所で若者は待っていたが、いつまでたっても娘《むすめ》はこなくて、とうとう雨が降って、それでも若者は待ちつづけて、ついには橋桁につかまって溺死《できし》したという内容だ。 「だからって、わざわざ放水時刻に橋桁で待ってて本当に流されることないじゃないの! なにわけわかんないことで命賭《か》けてんのよあなた!!」 「流れるつもりはなかったんだよ! あんなに怒涛《ごとう》のようにくるなんて思うか|普通《ふ つう》!」  男はあぐらをかくと、頬杖《はおづえ》をついた。 「……くモー。それで役目をまっとうして、家に帰れるはずだったのに」  秀麗はゆっくりと五数えた。ここまで待ってみたが、この男は肝心《か八じ・八》なことを話していない。 「で、あなたはどこのどなた様なんですかしすると彼は初めて目を丸くした。 「……あー、もしかして名前書くの忘れてた? 榛蘇芳《しんすおう》っていうの」 「人違いじゃなくて、ほんっとうに私に求婚Lにいらしたんですか」 「そうだよ。親父《おやじ》がガツソと求婚してこーいっていうから。なんか、あんたをたぶらかして結婚すれば、どこぞのエライ貴族から金と爵位《しやノ\い》がもらえるんだと」探《さぐ》ろうとしていたことを本人から堂々と言われ、秀麗は額に手を当てた。  見知らぬ貴族の息子からの|唐突《とうとつ》な|縁談《えんだん》とくれはおそらくとは思っていたが�。 「……で、謹慎《きんしん》中の間に、私に何気なく穏便《おんぴん》に結婚《けっこん》退官してほしいってことですか」 「まーそういうことみたいだな」  ここまできて、秀麗は怒《ょこ》るよりも、ほとほと|呆《あき》れ果てた。 「……あなた、ちょっと正直すぎると思わない?」 「あんたに退官してほしいやつなんて山ほどいるじゃん。別に隠《圭りく》す必要ないだろ」  何かが違う、と秀煤は思った。  というか、なんだかその『エライ貴族』は人選を間違っている気がする。  それまで|黙《だま》って聞いていた慶張が、突然立ち上がった。 「……俺、仕事あるから帰るわ」 「え? ちょ、ちょっと慶張?」          簡歯綴歯魂  ちょうどそのころ、胡蝶を訪ねてきた劉輝たちが転蛾楼に|到着《とうちゃく》していた。  開店前の時間だったが、轍環と顔見知りの門番が気づいて門をあけてくれた。  そのとき、近くで所在なげに転載横を見上げていた一人の男が、慌《あわ》てて声をかけてきた。 「あの、まだ開店前にすみません、ここは短蛾楼……ですよね?」  どうやら客人らしい。旅装を見ると貴陽の人間でもないらしい。  声をかけてきた男は、三十ほどの、温厚《おんこう》で人の良さそうな顔をしていた。けれど、まるで誰《だわ》かに追われているかのように落ち着きがなく、きょろきょろしている。 「ちょっと、お伺《うかが》いしたいのですが、こちらに歌梨という女性はいませんか?」  どうやら門番が特別に|扉《とびら》を開けたことで、転戦楼の関係者とでも思われたらしい。絳攸が訂《てい》正《せい》する前に、楸瑛がにこやかに答えた。 「いいえ、残念ですが、ここにはそんな女性はいませんよ」                                                                                                                                                                        一−.ノ  ものすごく自信たっぷりに答える轍域に、経枚と静蘭が冷たい目を向けた。劉輝は睨《�.1L▼》まれないよう、小さくなって日を逸《一て》らしていた。 「そ、そうですか……ありがとうございます………………」  男はガヅカリしたように肩《かた》を落とすと、丁寧《ていわい》に頭を下げ、トボトボと去っていった。  経枚が氷柱《つらら》のような視線を楸瑛に突《つ》き刺《さ》した。 「……お前な、堂々と答えてたが、もし本当に歌梨という女がいたらどうするんだフ」 「いないって。そんな名前の妓女《ご■じょ》は転戦楼にいたためしがないし」  珠翠《し紬すい》あたりが聞いたら、冷たく 「最低のポウフラ男ですね」とでも評したかもしれないと、劉輝はこっそりと思った。  ——そうして、何気なく一階に入ると、二階で秀麗の声が聞こえてきた。          ・歯・器・ 「ちょっと三太! 急にどうしたの!?」  いきなり室《へや》から出て行った塵張を追いかけ、一階に続く階段の直前でなんとか追いついて袖《そで》                                 ,hをつかむと、慶張は振《.▼》り返った。 「……お前がさ……」 「えフ」 「……俺、お前が、自分の結婚、あんなふうに言うの、聞きたかなかった。まるで、なんかの取引の一部みたいに、平気な顔で、他人事《けとごと》みたいに」秀麗は息を呑《の》んだ。 「わかってる。お前は変わってないけど……あの言葉は、官吏《カ伊んり》のお前にとって『本音』なのも、事実なんだ。お前が官吏にならなきゃ、あんな言葉はきっと、お前の口から出なかった。フツーに誰か好きになって、フツーにそいつと結婚して、フツーに幸せな暮らしして……」 「三太……」 「俺さ、知ってるんだ。お前が茶州で何してきたか」慶張は秀麗の目ではなく、つかまれている手を見つめた。 「俺んとこ、全商連系列の酒問屋だろ。うちも要請《ようせい》に応じて消毒用に大量の酒を確保して送ったんだ。それ、俺も手伝ってたから、事情は知ってる」慶張は袖をつかむ秀麗の手を、そっと外した。 「……いいのかよ、お前」 「……え?」 「登別があんだけ頑張《がんば》っても、結局、何が返ってきた? 何もかも取り上げられて、城にもあがれなくて、家に押し込められてさ。お前が命張ってここまでやって、結果は謹慎? 何一つ認めねぇってお上《かふ》に言われたも同然じゃん。お前がいくら頑張ろうが、上のヤツらは何もかも気にくわないんだ。お前の存在自体、目の上のたんこぶなんだ。だろ?」 「ーでも、それは私が」 「名のある貴族がお前と同じことして、同じ処分くらうと、本気で思ってんの?鄭悠舜て、お前の副官してたんだよな。大出世じゃん。あの影月だって、官位落とされただけだし、浪《ろう》燕青デだっけ。確か処罰《しよ1.fつ》なし据《す》え置き。お前だけだろ、何もかも取り上げられたの」 「…………」 「お前、さっきあのへンな男に、|騙《だま》されてることくらい気づけって言ってたけど、まさに俺がそうお前に言いたいよ。お前、わかってる? 人身御供《!?1レ】みご・、う・》にされたんだぜ。今まで茶州ほったらかしにしてきたヤツらの勝手な非l難を抑《おき》え込むために、妥協《だきょう》点として、お前を冗官にして謹慎処分にしたんだ。一番目立つ出る杭《く、1.》のお前の手柄《てがら》を帳消しにすりや、そりゃ静かにもなるさ」 「…………」 「悔《くや》しくないのかよ、お前? 最初から、王とか高官に利用されっぱなしじゃん。新米なのにいちばん最悪なとこに責任者として飛ばされてさ、失敗しろって言ってるようなもんだろ。お前らがなんとかかんとか頑張ってやっと落ち着いたと思ったら、謹慎。手柄だけ取り上げて、処分ほ全部お前になすりらけて切り捨てて」  秀麗は深く息を吸った。  ……それは、まぎれもない真実だった。 「お前が、いつも上を見て頑張ってきたこと、知ってる。フラフラ遊んでた俺とは違《ちが》って、いつだってなんか考えて、駆《か》け回ってさ。お前、ほんとすごいよ。でも、俺は……俺はさ」慶張は顔を上げて、秀班をまっすぐに見据《みす》えた。 「俺は、一人の女として、お前がこのまま幸せになれるとは思えない。周りも、お前自身だって、もう結婚をなんかの政略抜《ぬ》きに考えられないでいるじゃんか。お前、もう普通に恋《こい》して結婚する気、ないだろ。いや、できないって、思ってる。違うか?」秀麗は答えなかった。 「そうやって、上ばっか見ててさ……ずっと頑張ってるの、すげtと思うよ。でもーこれから先もたった一人でやってくのか? ずっと�一人で。・——�……こ《ヽ》こ《ヽ》じゃ、ダメなのかフ」 「え……?」 「お前のこと、ちゃんと認めて、好いてくれるヤツがたくさんいる、この街じゃだめなのかよ? お前、ここでならいくらでも幸せになれるはずだろ。なのにお前、まだ官吏として頑張                                                              11ノア{ろうって思えるのか? お前から官位を《▼》|奪《うば》ったヤツらのために、まだ」慶張は秀麗の表情を見て、唇《ノ、ちげる》をかみしめた。 「……悪い。こんな話をするつもりじゃなかったんだ。本当はもっと別の話をするためにきたんだけど……でも、撤回《てつかい》はしない。……帰るわ。仕事があるっていうのは本当なんだ。また、頭冷やして、訪ねる。じゃな」  振り返りもしないで帰っていく慶張を、今度は秀麗も引き留められなかった。  しばらくして、胡蝶が近づいてくる足音がした。 「……今のは相当、ぐらっときただろ〜秀麗ちゃん」  秀麗は泣き笑いのような顔で、胡蝶を振り返った。 「……正直、きました」 「三太はねぇ、あんたが官吏になったって知ってから、本当に頑張ったんだよ」  胡蝶は慶張が消えた|扉《とびら》に、視線を向けた。 「青巾《せいきん》党のときは確かに遊び惚《はう》けてるポソボンだったけど、今は違う。王旦那《だんな》の下《もと》で|真面目《まじめ》に白生懸命《いつしょうけ人めし.》働くようになってさ、見違えるように変わってね。……きっと、頑張ってるあんたに負けないように、自分も何かしなくちゃって、思ったんだろうねぇ」 「三太が……」 「あんたのこの一年のこと、あの子は良く知ってたろ? すごく心配して、出来る限りで情報集めて、いろいろ考えてたんだと思うよ。あの子は三男坊《ぼう》だから、家は継《つ》げないけど、それでも婿養子《むこようし》に欲しいってのが、今じゃひきも切らずにきてる。でも、あの子はどんなにイイ娘が《むすめ》相手でも、全部断ったっていうんだよ。心に決めた子がいるからって」 「:●:…ー二 「今の秀麗ちゃんなら、どういうことか、わかるだろ?」  胡蝶は一年前よりもずっと|綺麗《き れい》になった少女を見つめた。 「……イイ男になったよ、三太は。今のあの子は、多分あたしでも落とせないだろうね」  胡蝶は秀麗の低い鼻を、されいな指先で軽くほじいて|微笑《ほほえ》んだ。 「今回ばッかりはあたしも何も言わない。この謹慎《きんしん》期間中に、どうせ色々考えるに決まってソだからね。出した結論が、正解だ」秀麗は苦笑いした。 「胡蝶妓《ねえ》さん、私を信頼《しん∴∵い》しすぎ。……でも、考えてることは、あるんです。前は、考えなくて、……とんだことに、なっちゃったし」 「秀麗ちゃん」胡蝶はくいっと、秀麗の顎《あご》を人差し指と親指でもちあげた。   みがお 「男と女の違いを、ちょいと教えてあげるよ。女は好きな男のために自分を磨くのを惜しまないけど、男は自分のために自分を磨く。女のためにイイ男になろうと思わない。だから大概《たいがい》の男は自分より上の女は選ばないのき。今の自分のままで構わないと言ってくれ旦楽でカワイイ女を選ぶ。ふふ、世の男は、よくあんなイイ女がどうして独り身だって首を傾《カし》げるけど、簡単さ。男のほうが釣《つ》り合う努力をしないからだよ。……でもね、ほんとのイイ男ってのは、女のためにだって自分を磨いて釣り合う努力をしてくれるもんさ。三太みたいにね。……言いたいこと、わかるね? 釣り合う努力もしなかった男がいたなら、とっとと忘れちまいな」  胡蝶が|曖昧《あいまい》な言い方をしてくれたから、秀麗も苦笑《くしょう》するだけでとどめた。 「胡蝶妓さんが独り身なのも、そういう理由ですか?」  胡蝶は艶治《えんや》に笑って、是《ぜ》とも否とも言わなかった。 「……心が欲しい、愛が欲しい、安らぎが欲しい、|優《やさ》しさが欲しい、|刺激《し げき》が欲しい……男はね《1》だりや《ヽ1ヽ》で、時々女を母親と勘違《かんちが》いする。目に見えないモノをいくら|捧《ささ》げても、それを当然だと思ってる。自分を削《けず》って何かを与《あた》えてくれる男は、なかなかいない。ま、女も同じだけどね」            気・へ灘も轡仇…  階上で聞こえた秀麗の声にぎょっとしてとっさに階段の裏にすべりこんで隠れた劉輝たちは、まったく偶然《∵う・ぜ・へ》に二人の会話を聞いてしまった。  慶張が彼らに気付かずに短蛾楼から出て行ったあとも、一様に沈黙《ち人もノ、》していた。  ……慶張が言っていたことは、まったくの事実だった。 「……今のはきたねぇ……」  ポッリと|呟《つぶや》いた楸瑛に、絳攸はうつむいた。  必要な措置《そら》だった。そう思う。朝《ヽ》廷《ヽ》に《ヽ》と《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》。  ……上に来い、と絳攸は当然のように何度も言った。  けれど秀麗には、『一人で頑張りすぎるなよ』と言って、手を差し伸《由》べてくれる世界もあったのだ。それは、絳攸たちには、口が裂《き》けても言えない台詞《せりふ》だ。  頑張りすぎるほど頑張ってさえ、まだ足りない。劉輝たちが助けるわけにはいかない。  秀麗の心の支えでもあった、影月と燕青からもわざと引き離《はな》した。  秀贋が官吏《かんり》として認められるためには、たった一人で頑張らなくてはならないのだ。  十頑張っても一しか評価されない世界で、百を、彼女は求められている。  ——それが、彼女自身の選んだ道だと、切り捨てるのはたやすいけれど。 『最初から、王とか高官に利用されっぱなしじゃん』  あの言葉に、秀麗は反論しなかった。彼女自身も、その事実をちゃんとわかっている。  これからも、機会があれば劉輝も絳攸も、また彼女を利用する。そのことさえ、きっと秀露はわかっている。 「……お嬢様が《けレ←やつーきま》選ぶことです」  ただ一人、静蘭だけは平静な顔で、静かにそう言った。  他《ほか》でもない、その言葉が静蘭の口からでたことに、絳攸は目を見開いた。 「主上はちゃんと全部わかっていて、何も|後悔《こうかい》していないのーに、絆牧殿《どの》や楸瑛殿がそんな顔をなさっていたら、立つ瀬《せ》がないではありませんか」絳攸と楸瑛が弾《はじ》かれたように劉輝を見ると、うつむいて唇《′\ちげる》をかみしめてはいたが、その双畔《一てうぼう》は線紋のように揺《ゆ》れてはいなかった。 「あと、あまり、お嬢様を見くびらないでくだきいね」 「……どうしたのかな、静蘭。いつもと違って、やけに積極的だね」  楸瑛がわざと軽い調子で言ってみ渇と、読めない笑顔《えがお》で返された。 「ええ。私もいろいろ考えまして、軒《_ヽJ》っ切れたこともあるものですから」  劉輝は貯心地《lごこち》が悪そうに、そわそわと隣《となり》の兄を盗《ぬす》み見た。……この感覚は覚えがある。 (……昔の清苑《せいえん》兄上がいるみたいだ……)  自信に溢《あふ》れ、歩む道をまっすぐに見据《みす》えていた、|自慢《じ まん》の兄−。 「……どうします、主上。すぐ上に行きますか? 秀麗殿に会えますよ」  楸瑛の言葉に劉輝は目を閉じて、首を振《.お》った。   ー桜が、咲《さ》くまで。 「……秀麗たちが帰ったら、胡蝶に会いに行こう。あ、でも静蘭は秀麗についててくれ」 「わかりました」  静蘭は|微笑《ほほえ》んで額《うなず》いた。           ——.∵   吉・  胡蝶と秀麗が蘇芳のいる室《hや》に戻《もご》ると、なぜか彼は天秤《J−人吋−九》で遊んでいた。 「……蘇芳さん? 何してるの?」 「いや、さっき向こうの|扉《とびら》からおっちゃんが顔出してさ『おや新顔かね。この宴にいるとは、ずいぶん胡蝶に信頼されているのだね。ちょうどよかった、こないだの画《え》を売った代金を懐《・山ところ》にしまったまま忘れてたのだよ。はかって経費として帳簿《ちょうぼ》につけておいてくれ』っていうから。この立派な衣服の俺をつかまえてさ。店の|小僧《こ ぞう》に見えるのかなぁ」 「……この垣娩楼の大旦那《おおだんな》を、おっちゃん呼ばわりのほうがスゴイよ」 「ね、ねぇ……どうしてお金数えるのにわざわざ天秤もちだしてるの……」  胡蝶は苦笑いし、秀麗は肩《かた》を落とした。数十枚程度のお金を数えるのに、なぜ天秤。慶張の一件でしんみりしていた気分も吹っ飛びそうになるほどツッコミたくなる。 「だって、『はかって』っていうからさ」  数えてくれ、ではなく、まんま『量って』ととったらしい。それでも金は数えられるが、分銅でなく両方とも貨幣を載《わ∵‥+山》せてどうするのか。まったく今時のボンボソは金の数え方も�。  秀麗はふと、違和《−blq》感を覚えて天秤をよく見た。どこかが、おかしいー。                                                               ノ  秀麗はゆらゆら揺れて《一》釣り合っている天秤に近づいて、まじまじと見た。  そして違和感の正体に気づいた瞬間、《LはんかÅ》−ぞっとした。背筋に震《ふる》えが走った。 「……どうしたい、秀麗ちゃん? 顔色が青いよ」  秀居は青ざめながら、蘇芳に訊《曳一一一》いた。 「蘇芳さん……大旦那は、それ……画を売った代金、つて言ったのよね?」 「そぉ。……うん? あんた、ホント顔色悪いよ」 「……秀麗ちゃん?」  秀麿はゆっくりと胡蝶を振り返った。 「胡蝶妓さん……あの天秤、おかしいところ、気づきません……フ」  蘇芳は目をバチクリさせて天秤皿を見ている。                                                       ・かつう  胡蝶は近づいてよくよく見つめた。天秤はずっと普《�》通に使っているもので、別に故障したとも聞いていない。それぞれの皿に載っているのは何枚かの貨幣。両方とも同じ金の−。 「……な、んてこったい……!」  天秤は釣り合っている。ただし、|両脇《りょうわき》に載っている皿の、貨幣の枚数が違う《1ヽヽヽヽヽヽヽ》。  同じ金の貨幣。同じ量だけ載せれば、当然釣り合う。けれど、片方に金貨を多く載せなければ釣り合わないということはーどちらかの貨幣の質が悪く、軽いからだ。それは——─完 「ニセ金か……つ!」胡蝶の目が燃え上がった。 「この短娩楼相手に、よくもやってくれたね……」  秀麗は頭の中で必死で整理していた。贋作《がんさく》・画商・贋金《にせがね》−。 「胡蝶妓さん、大旦那が買った画ってもしかして……」 「いや、大旦那が買ったのは無名の新人の画って言ってたから、買ったのは贋作じゃない。ただ、売ったのは真筆だったはずだ。……秀麗ちゃんの言いたいこたわかる。あたしもグルの可能性はかなり高いと思う。贋作であたしらの目をごまかしといて、本当の儲《もーブ》けどころは実はこセ金ってわけかい。贋作とニセ金で一挙両得なんぎ、腐《くき》った|真似《まね》してくれる」胡蝶は秤《はかー》の上の貨幣をつまみあげた。一番真贋判定の目安になる紋様の出来が特にすごい。 「……贋作同様、相当の出来だね……。いちばんニセ金が出回りやすい花街《う▼ち》じゃあ、それなりの目利《めき》きを抱《かか》えてる。なのにその日さえごまかしてくれたとはね……。秀麗ちゃんが気づかなかったら、いつ気づけたかわからないくらいの出来だ」秀麗は立ち上がり、まだコトの重大さをわかっておらずに天秤を揺らしている蘇芳を見た。 「……蘇芳さん」 「なに?」 「あなた、官吏なんですよね?」 「官位はあるっほいけど」 「私みたいに謹慎《きんし人》中とかじやないですよね?」 「謹慎にされるようなことしてわーもん」 「じゃ、|一緒《いっしょ》にお仕事に行きましょう、お仕事。ささ、今すぐ一緒に!」  蘇芳は|呆《あき》れ果てたようにちろりと秀麗を見上げた。 「……あんた、ほんっっと仕事好きな。でもヤだよ。あんた好みじゃねーもん。ガツソと|求婚《きゅうこん》してこいって言われただけだし。とっととお役御免《ごめ人》させてもらー」 「あのねぇ、ポーヤ。あんたんちも他人事《ひと.ごと》じゃないよ」胡蝶は一幅《いつふく》の画を見ていた。それは慶張のではなく、秀麗が最初に書翰《しよかん》と一緒に蘇芳から渡《わた》されて、まだひらいていなかった『巻物』だった。 「あんたが秀欝ちゃんに渡した『贈《おく》り物『これも贋作だよ」 「え」  蘇芳は目を丸くしたが、すぐに|納得《なっとく》したように仰向《あおむ》いた。 「……そこらに置いてあったやつ適当に選んでもってきただけなんだけど、……うちの醜父《おやど》なら超《ちょう》ありえるなt。すっげ|騙《だま》されやすいんだもんよー」その血は確実に息子にも流れている。秀麗と胡蝶はタソタンタヌキ軍団を見てそう思った。 「じゃあ余計ホケホケしてる場合じゃないでしょう! 被害者《ひがい、しゃ》なんですよあなたのお父様!」 「うーん、でも親父、別に被害に遭《あ》ってるって気づいてわーからな!…‥」かなりやる気のない蘇芳に、胡蝶は指をすべらせると胸元《むなもと》を引きずり寄せた。  百人中百人とも陥落《かんらく》必至の、特注のとろけるような微笑《ばしょう》を|浮《う》かべ、耳元で囁《ききや》いた。 「一緒に行かないと、……この世の|地獄《じ ごく》を見ると思いな」  睦言《むつごと》のように|妖艶《ようえん》な囁きなのに、�蘇芳は本能的な|恐怖《きょうふ》で気づけば領《うなず》いていた。 「……謹《つつし》んで行かせていただきます……」 「さすが胡蝶妹さん! 今のが色仕掛《いろじか》けってヤツね!」  秀麗が拍手《はくしゅ》をしたが、蘇芳はつっこんだ。 「もげtだろ! こりゃ|脅迫《きょうはく》っつーんだ!」 「おや、あんたタダのお|馬鹿《ばか》だと思ってたけど、案外理性的だね。秀麗ちゃん、あたしが鑑定《かんてい》した贋作は、まとめて羅千《らかん》が保管してる。文《ふみ》を届けておくから、行って見てくるといい」チラッと胡蝶は|扉《とびら》を見て微笑んだ。 「静蘭と一緒にね」 「おや……これはこれは藍様」  そのあと秀麗が出て行ったのとはちょうど入れ違《ちが》いに別の扉から入ってきた劉輝たちに、胡蝶は|物騒《ぶっそう》に目をきらめかせた。楸瑛に向かって贋金を一枚ほじく。  楸瑛はギクリとした。 「……その顔からすると、知ってたね?」 「…………」 「知ってて|黙《だま》ってたってワケかい」 「……胡蝶」 「いや、いいさ。お上が何考えてるのかなんて、説明されてもね。あたしらは仕えてるわけじゃないし、あたしらも全部信頼《し人・りい》して何もかも話したりほしない。どっこいどっこいだからね」 「……すまない」 「ただね、これに気づいたのは秀麗ちゃんだ、で、当然スッ飛んでいったよ」その言葉に、劉輝たちは目を剥《む》いた。 「秀麗が!?」 「そう。調べに飛んでいったけど……、やっぱり秀麗ちゃんには見張りがついてるよ。謹慎中もなんかしでかすんじゃないかって、よっぽど警戒《けいかい》されてるみたいだね。秀薦ちゃんに手柄《てがら》立てさせたくなくて足引っ張ろうなんざ、情けないにもほどがある。……ケド」  胡蝶は苦笑いした。 「……ほんっとうに謹慎中でも自分でお仕事見つけて飛び出しちまうんだからねぇ」  胡蝶は動こうとしない劉輝たちに、|眉《まゆ》を上げた。 「おや|珍《めずら》しい、行かないのかい?」 「静蘭がいるなら|大丈夫《だいじょうぶ》だ。それよりも先に、そなたに訊《さ》きたいことがあるのだ」 「訊きたいこと?」 「碧幽谷が下街にいるらしいと聞いたのだが、何か情報はないか?」  胡蝶は碧幽谷の名に目を丸くしたあと、眉を寄せてちょっと考えこんだ。 「……そうさねぇ、幽谷自身は知らないが、芋がかりになる人物は知ってるかもしれない」 「ほんとか!?」 「うちに長逗留《ながとうりゆう》してくれてる歌梨《かりん》っていう女なら、何か知ってるかもしれない」 「……え。か、歌梨?」  聞き覚えのある名に、楸瑛は思わず口許《くち.もレ)》に手をやった。ついさっき自信満々に追い返した男を思いだす。……しまった、|嘘《うそ》をついてしまったらしい。悪いことをした。  劉輝は首を傾《かし》げた。 「……なぜ女性が妓楼《で,ろう》に泊《と》まっているのだ?」  胡蝶はうりと言葉を詰《つ》まらせた。世の中、知らなくてもいいことがある。 「……ちょいと変わっててね……。でも彼女はあたし以上の目利きなんだよ。幽谷のことを知ってる可能性があるとしたら、多分彼女くらいだろうね。あソだけの目をもつには、あっちこっちで相当イイ画《え》を鑑定しっづけてきたはずだから。幽谷の情報も|握《にぎ》ってる可能性はある」 「そ、その女性はいまここに?」 「いやそれが、ほソのついさっき、すごい勢いでどっかにスッ飛んでいっちまってねぇ。一応戻《もご》ってくるとは言ってたけど、……今までにもそう言ってフラッと消えちまったことはあるから、待ってるより、捜《さが》しに行ったほうがいいとは思うけどね」ああそうそう、と胡蝶は何気なく忠告した。 「彼女はちょいと男にゃ厳しいから、お気をつけね」          ・器・器・  王が城下へ降りてからしばらく、悠舜ほ一人で仕事をしていた。|途中《とちゅう》、資料が必要なこと風気づいて車椅子《くるまい寸》を自分で回し、|書棚《しょだな》に寄った。並ぶ背表紙を見上げ、ちょうど見つけた瞬間、《しゅんか人》後ろから誰《だーl》かの指先がその本を抜《ぬ》き取った。 「おや……黎深」  ぶすくれた顔つきのまま、黎深は本を差しだした。 「ありがとう。お手伝いにきてくれたのですね?」 「馬鹿をいえ。休憩が《きゅうけい》てら遊びに来ただけだ」 「……黎深、今の私はあなたの上司だというLと、ちゃんとわかっているのでしょうね…⊥|溜息《ためいき》をついて車椅子の向きを変えると、黎藻がじっと見下ろしている。そのまま、黎深はスッと伸《の》ばした扇《おうぎ》の先で、悠舜の顎《あご》を軽くすくいあげた。 「……お前は、あの漬垂《はなた》れ|小僧《こ ぞう》を甘やかしすぎだ」  低い声には、不愉快《ふゆかし.》そうな苛立《いらだ》ちがにじんでいた。 「お前が甘やかすのは、奥方と私だけでいいんだ」  悠舜ほ首を傾け、ちょっと微笑んだ。 「いやですよ。ろくに文もくれなかった友人は甘やかしません」  黎深の深い瞳《ひとみ》の色は変わらなかった。本気の時は、どんな茶化しにも応じない。 「お前が何もかも引き受けて、楯《たて》になる必要なんかない。……宰相位《さいしようい》を降りろ。死ぬぞ」 「そうですねぇ……。でも、ほしいものがありますから」 「ほしいもの? お前が? なんだ? そんなもの、いくらでも私がくれてやる」 「いいえ。命を賭《か》けないと、手に入れられないものですから」  頓《おとがい》にかかる扇をそろえた指先で外す。黎深はますます苛立ちを濃《こ》くした。 「お前が、あの痍垂れ小僧に脆《ひぎまず》くのを見るのが面白《おもしろ》くないんだ。お前、いま私とあのハナタレのどっちをとると訊いたら、絶対ハナタレを選ぶだろう」 「ええ。よくわかっていますね」 「−だから面白くないんだ! 今すぐ宰相やめろ! あんな小僧ほっとけ! 私を選べ!」  悠舜ほなんだか不倫《ふりん》でもしている気分になった。裸《りん》が聞いたらどう思うだろう。  子供のようにカッカと病癖《かんしやく》を起こす黎深を見上げる。  ……決めたことがある。 「いいえ。黎深、あなたが私を選んでください」  黎深は|驚《おどろ》いたように口をつぐんだ。ややあって、ぷいとそっぽを向いた。 「…お前が尚書令《しようしよれい》になっても、私は変わらん。国なんかどうでもいいし、王家もキライだ」 「変わってはしいとは思っていません。ですから、あなたの意思に任せます」譲らない悠舜に、黎深ほ唇を噛《′1ちげるか》んだ。そうー茶家なんぞに、この男をどうこうできるわけがないのだ。この紅黎深の言葉さえ聞き入れない男を。  どうやら|珍《めずら》しく|葛藤《かっとう》しているらしい黎深のために、悠舜はさりげなく謡を変えた。 「まあ、しばらくは大丈夫ですよ。礎も護身用に隠《末りく》し武器をつくってくれましたし」 「……隠し武器?」 「そう。まだ試作品といってましたけれど。この杖《つえ》の柄《え》をね、確かこう回して−」  悠舜が奥さんに言われたとおり杖の柄を回すと、ボン、という破裂音《はれつおん》とともに勢いよく−なぜか造花の花束が飛び出した。……仕込み杖ならぬ、仕込み花束。  二人は杖の先にわさっと咲《さ》いた花束を間に挟《はさ》み、しばし沈黙《ちんもく》した。 「…………。…………おやフ」 「…………。なにがおやデだ。売れない芸人にでもなるつもりかお前」  黎探が杖をのぞきこんだ瞬間、造花のなかから飛び出した玉が見事に黎深の眉間《一調‖.<》に命中した。  玉が割れた瞬間、なんと胡椒《こしょう》が飛び散った。黎深ほもろに日と鼻に胡椒|攻撃《こうげき》を受けた。 「いてっ……つくしゅん! へっくしゅん‖‥ふぁっくしゅん!」  たまらず涙目《なみだめ》でくしゃみを連発する黎深をよそ目に、悠舜は感心して杖を眺《なが》めた。 「……時間差と心理戦の連係できましたか。黎深も引っかけるとほさすが私の奥さんです」 「お、お前! 他《ほか》にも奥方、に! 何か|妙《みょう》ちきりんなものもらってきたのではなかろうな!」おでこを押さえ、くしゃみをしてわめく年下の友人に、悠舜は笑いだした。 「『氷の長官』の|威厳《い げん》を取り戻すまで、この室《へや》にいて仕事を手伝ってくれてもいいですよフ」  悠舜の仕事は尚書省の統括《とうかつ》なので、史跡《り昔》の決裁も含《、? く》まれる。結局は絳攸の仕事量もちょっとは減って楽にしてあげられるだろう、とまでは言わないでおく。 「仕事をしない人は、この室から即刻《そつこく》出て行ってもらいますからね」 「…………。……わかった」  さすがの黎深も、真っ赤に|充血《じゅうけつ》した目でポロポロ泣いてくしゃみして湊を垂らす情けない姿をさらしながらウロウロ回廊《かいろう》を歩くくらいなら、ここで仕事をしているはうが百倍マシだった。  万一縁故や鳳殊にでも見られたらー本気で何をしでかすかわからない。  紅黎深におとなしく仕事をさせたこの武勇伝がのちに朝廷を震撼《ちょうていしんかん》させ、鄭悠舜の名を|一躍《いちやく》ガツソと高めるのに一役どころでなく買ったのは、もう少しあとの話になる。      書議を追っかけ首へ東へ  転戦楼を出た瞬間、蘇芳は秀麗から逃《に》げようとした。  が、秀麗が目敏《めlぎと》く気づいて袖《そで》をつかんだ。 「あっ、手伝ってくれるって言ったじゃないの!」 「言ってねぇ! なんで俺を巻き込むんだー!」 「だって官位があったほうがいいときがあるかもしれないんだもの! お願い!」 「あ、あんたなー」  瞬間、ズビシ! と蘇芳の後頭部にしたたかに何かがぶつかり、蘇芳は目から火花が散ったかと思った。すかさず涙日で後ろを見ると、先ほど合流した静蘭とかいう男がちょうど紺《ま》ね返ってきた『何か』を受け止めているところだった。それはまるまるとしたタケノコ一本。彼は何もなかったように、今の出来事を見てしまって|呆然《ぼうぜん》としているタケノコ売りのおっちゃんににこやかに代金を払《はら》っていた。ぶつけられたのはあのタケノコだったらしい。 (オニかあの男−!)    「■.ノ.■  ′一rt■lにっこりと紅秀麗の『家人』とかいう男が笑った。秀露が 「|求婚《きゅうこん》Lにきたひと」と|紹介《しょうかい》した瞬間から、なんだか蘇芳は命の危険を感じてしょうがなかった。 (ていうかなんだよタソタソ君て……)  タソタソタヌキから勝手に命名したらしい。まるでお前なんかタンタンで充分だ《じゆうぶん》といわんばかりである。 「男なら、言ったことは守るべきだと思いませんか」 「いや別に」  今度は蘇芳は何かにすべって後ろにスッ転び、後頭部をしたたかに地面に打ち付けた。タケノコの皮が一枚ひらりと舞《ま》い落ちて、蘇芳の顔に着地する。すべったのはタケノコの皮だったらしい。もちろん偶然《ぐうぜん》蘇芳の足の下にすべりこむわけがない。なんという家人だ。  しかも前を向いているとはいえ、紅秀麗はまったく気づかない。 「あら、なんでタケノコもってるの静蘭」 「今日のお夕飯にどうかと思いまして」 「そうね。いいわね。今が旬だ《しゅん》ものね。|穂先《ほ さき》の姫皮《ひめかわ》だって食べられるし。米ぬか加えてゆでて、刻んだ大根と叩《たた》いた梅肉で和《あ》えたの、静蘭好きだしね」 「はい。タンタソ君も快く|一緒《いっしょ》に夕暮れまで付き合ってくれるそうですよ。ね?」 「………………」タソタソは是《ぜ》と言わなかったが、有無《うむ》を言わさず静蘭に引きずられることになった。   ーが、蘇芳はすぐに否と言わなかったことを|後悔《こうかい》した。 「……なんで賭場《とば》なんだよ!?」  人相の悪すぎる男たちが、あまりにも場違《ぼちが》いな蘇芳をじろじろ見てくる。金のタヌキは目立つので、一応手提《てき》げ袋《バ.、ろ》に入れて持ち歩いているが、なんだか自分が金のタヌキになったかのような気分だった。まだ午《n‥る》なのでほとんど人はいないが、それにしたって怖《こわ》すぎる。というか、この女はなんで平気な顔でこんなとこに足を踏《で》み入れてるんだ。 「だって、胡蝶妓《ねえ》さんが羅干《・りーかん》親分のとこに行けって言ってたじゃない」  蘇芳は真っ白になった。・1——親分!?ちょうどそのとき、奥から総白髪《そうし、りが》を締居《き〜‖い》になでつけた老人が出てきた。一見、どこかの貴族といっても通用する風貌《一で〕ぼう》だったが、その日を向けられた蘇芳は反射的に縮み上がった。 (コワ!! )  しかし秀麗と静蘭は笑顔《えがお》で丁寧《ていねい》に頭を下げた。 「お久しぶりです・、擢干さま。突然《とつぜん》お|邪魔《じゃま 》しまして、申し訳ありません」 「いいや。よくきたな、嬢。《じょう》ふ、朝廷に見切りを付けて、またここで帳簿《らようぼ》付けの賃仕事をしてくれる気になってくれたのかな」 「ゝ卑えっとお一 「ふふ、よい。困らせてしまったな。胡蝶から使いがきている。こちらへきなさい。……そちらの|小僧《こ ぞう》は?見ない顔だな」 「……えー、私と同じ官吏なんですけど」途端《とたん》、ギラリと周りから極悪《ごくあ.、》な視線が突《り》き刺《さ》さり、蘇芳はバリネズ、、、の気分になった。基本的に、破落戸《ごろつき》を取り締《し》まるお役所と裏の男たちの仲が最悪なのは当然のことである。  秀麗は慌《あわ》ててとりなした。 「そ、その、私、いま何の権限ももってないので、お願いしてこの人に一緒にきてもらってるんです。別にガサ入れとかじゃなくて」 「おわー! 何いってんだ! 余計あやしまれるじゃん!」羅千と呼ばれた親分は、チラリと蘇芳を見た。 「……まあ、嬢と一緒ならよかろう。身ぐるみ鮒《■》がして売り飛ばしたくなるような格好をしているが、皆《みな》の者、手を出きぬようにな」 「……あー。じゃ、俺は外で待ってるから、行ってくれば」蘇芳が何気なさを装《よそお》ってそう言うと、秀麗は疑いもせずに領《うなず》いた。 「わかったわ。じゃあすぐ戻《一も‥こ》ってくるから」  なぜか、今回はあのおっかない家人も何も言わなかった。秀麿が奥に消えると、蘇芳はほくそ笑んだ。ふっ……なんて頭がいいんだ俺。このままトンズラこいてやる。こんなおっかねぇとこにいつまでもいてたまるか。  意気揚々と振《いきようよう・か》り返った瞬間、蘇芳は|凍《こお》りついた。  まるで 「オウこのガキヤ、逃げようもんならとって食うぜよコラ」とでも言うかのように、強面《こわもて》の男たちが欄々《らんらん》と目を光らせている。  うしろから、ぬっとぶっとい腕《うで》が突き出て蘇芳の肩《かた》に回された。 「……おう兄ちゃん、お嬢が出てくるまで、ちょいと遊んでかねぇかい?」  にやり。そんな擬音語《ぎお人ご》が聞こえたように蘇芳は思った。  �少し経《た》って、用を終えて奥から出てきた秀麗と静蘭が見たのは、見事に賭博で身ぐるみ剥《は》がされまくり、まさに手下たちに男の畠後の砦、《とりで》アンドシまでもひんむかれようとしていた蘇芳の姿であった。静蘭でさえ残していったのをちょっと不憫《ふげん》に思った光景だった。 「……ひどい目にあったぜちくしょう……」  すべての元凶《げんきょう》は、どこぞの女に求婚Lに行ったことだとしか思えない。  ちゃんと返してもらったものをひとつひとつ身につけながら、蘇芳がぼやく。タンタソタヌキ軍団までまた身につける蘇芳に、秀麗は言ってみた。 「……ね、それ、全部包みにしまっておいたら〜」 「ダメダメ。肌身離《はだみはな》さずつけてないと悪いことが起こるって言われたもん」  そりゃ、お守りどころか呪《のろ》いの品ではないか、と秀麗と静蘭は思った。  T……こ、このひと……ほんっとに|大丈夫《だいじょうぶ》かしら……)  今まで年上といえばたいがいしっかり者が多かった秀麗は、本気で心配になった。劉輝は確かに|騙《だま》されやすいが、なんだかんだいって結局たいした|被害《ひ がい》に遭ってはいないし。  蘇芳が身支度《みじたく》をしている最中、『贋金《にせがね》』の一件が秀麗の|脳裏《のうり 》を過《よ》ぎった。画商が贋金とも関《かん》与《よ》しているなら、この贋作《がんさノ1》と一緒に流通しているはずだが1秀麗は言うべきかどうか迷った。  贋作はともかく、贋金は国の一大事だ。つくれば問答無用で死罪だし、何より市場が混乱する。秀麗一人でなんとかできる類《たぐい》のものではないし、あちらこちらに言いふらすわけにはいかない。ましてや今の秀麗は何の権限もない無官の身だ。l応、胡蝶にも口止めしてきたが−。  秀麗は結局『贋金』の件は言わず、ただこうとだけ言った。 「ところで羅干親分、金物屋さんに関して何か苦情がありましたら、言ってください」  すると、羅千は面白《おもしろ》そうに秀麗を見た。……秀麗はぎくりとした。何も言わずとも、全部筒《つつ》抜《ぬ》けてしまった気がしたが、もう後の祭りである。人生経験に差がありすぎる。 「わかった」  けれど擢千は何も訊《き》かずにただ鷹揚《おうよう》に領・いた。            徴態綿飴鎗  一方、劉輝たちは碧幽谷の手がかりをつかむために、転戦楼を出たあとその歌梨という女のー行方《紬′〜え》をさがすことにした。−が。彼女の謎《なぞ》な行動に首を捻《ひね》ることになった。 「どうやら歌梨という女性は、なぜか書画屋を片っ端《はし》から当たっているようですね」  通りを歩きながら配下から受け取った文《ふみ》に目を通していた楸瑛は顎《あご》に手をやった。 「店で贋作を見つけたら『贋作!』と指摘《しイ�き》して、次の店に飛んでくらしい」 「お前の配下でつかまえられないのかフ」 「……うーん、何回か声をかけてみようとしたらしいんだが、……なんだろう、詳《くわ》しくほ書いてないが、ことごとく蹴散《りりも・》らされたらしい……」なんだか、その部分に涙の痕《なふだあと》のような染《L》みがにじんでいるのは気のせいだろうか。  そのとき前方から一人の女が土壌を蹴立《つちば二りけた》てて猛然《もうぜ人》と駆《か》けてきた。 「おどきなさいそこな下郎《げろう》ッ!!|邪魔《じゃま 》ですわっ」  一喝《いつかつ》され、三太がえっと思ったときには、すでにすれ違って後方に走り抜《ぬ》けていた。  あまりの突進ぶりに、誰もが悲鳴を上げて飛び退《だJtOJ》くようにして道を譲《ゆず》っている。一つに束ねた巻きの強いくるくるとした長い髪《かみ》が背中から浮《う》きっぱなしだ。 「……な、な、なんだ、今のl猪l《しl打しし》みたいな女は」 「それは失礼だよ経倣。かなりの美女だったよ。勝ち気そうな目に、ちょっとつり上がった細い|眉《まゆ》。柳《やなぎ》みたいな腰《こし》にふくらんだ赤い唇。歳《′1ちげるしこし》は二十半ばとみたね」 「なんで今の一瞬《いつし紬ん》でそんだけわかるんだ貴様は!?」 「……下郎……余ははじめて下郎と言われた……」|呆然《ぼうぜん》と見送っていると、あんまり人相の良くない輩が《やから−》、突っ走ってくる女に気付き、にやにや笑って遊び半分で道を塞《ふさ》ごうとしているのが見えた。さすがに助けに行ったほうがいいかと楸瑛と劉輝が足を踏《トL’》み出したとき−。  女は|一切《いっさい》足を止めず、そのまま迷わず男の股間《こかん》めがけて跳《と》び蹴りを食《ノ、》らわした。  まるで紙芝《かみしぼもl》居でも見ているようにゆっくりと男が悶絶《もんぜっ》の悲鳴をあげてうしろにぶっ|倒《たお》れ、女はひらりと着地、かつトドメとばかりに男の顔面を問答無用に踵《かかと》でげしっと踏みつけた。 「まったく男というのは害虫の別名をいうんですわ!!死んで出直しなさい!!」  吐《よ》き捨てると、女はまたまた全力疾走《しつそう》で駆け出し、近くの小路に消えた。 「…………」 「…………余も……害虫か…………」 「…………。ええと……あっ、秀麗殿《どの》の情報も書いてありますよ……」  楸瑛が気を取り直して讃翰《しよか人》に目を落とした。いまのことは忘れることにしよう。 「あ、|凄《すご》いな。羅干親分の店にも秀麗殿は入れるのか。私でも門前で立ち話が精々なんだが」 「羅干親分〜」 「ええ。胡蝶より上格の大親分ですよ。そこで保管されていた贋作をもっていったらしいですね。あと、なんと『金物屋さんに苦情があったら教えて下さい』と頼《たlの》んでいったとか」劉輝と絳攸が目を丸くした。ややあって、絳攸は額を押さえた。 「……御史台《ぎよLだい》がやることを秀麗がやってるぞ。本格的にまずいんじゃないか」 「……いや、秀麗は御史台が動いてるとは思っていないのだ。だから…⊥言われて気づいた緯他は思わず坤《うめ》いた。 「そうか、そうだったな。……いつもなら正しい、んだが……」  監査《かんさ》の御史台が動くには、ある前提条件がある。秀麗はまだそれを知らない。 「秀麗のことだ。ガサガサしたり犯人《ホシ》を挙げる前に上申書を出してくれると思うが……」  ……ガサガサする、とはどうやら家宅捜索《ガサいれ》のことらしい。楸瑛はこめかみをもんだ。 「……主上、なんです、そんな言葉どこで覚えたんです」 「フフ……霄太師からもらった本で、余も日々|庶民《しょみん》の勉強をしているのだ。|偉《えら》いだろう・。|自慢《じ まん》の主上だろう? ささ、遠慮《えんりょ》なく欝《ま》め七くれていいぞ」胸を張る劉輝の両頬《l,ようほほ》を、経枚がうにょーんとひっぱった。 「そんな言葉より先に、|謙虚《けんきょ》という言葉を覚えてほしいもんですね」 「……あの……そなたは『尊敬』という言葉を知っているか?」 「ええ、もちろん。いっその言葉を使えるかじりじりしながら待ってますよ」  劉輝はひっぼられた頬をさすりながら、楸瑛の報告を思い返した。  楸瑛でさえ門前での立ち話しかできなかったというのに、秀麗は贋作《が・れさく》の持ち出しを許された。  秀麗が他のぼっちゃん官吏《カ人り》と違《らが》うのは、育ってきた環境だ《かんき上てコ》。賃仕事であちこちに顔を出し、道寺《てら》で子供たちに勉強を教えがてら懸命《けんめい》に働き、培《つちか》ってきた人との信頼《Lんらい》関係。 「……今の御史台長官は手段を選ばない上に衿侍《竜−よー? じ》が高いと聞いている……」  絳攸は劉輝の言いたいことを察して、|溜息《ためいき》をついた。 「……ええ。秀麗は知らず知らずに相当なプチをつかんでいる……御史台が知ったら、確かに面白くないだろうな……」 「もしかしたら、秀麗が動いたことで案外早く決着がつくかもしれぬ。あんまりのんびりしてもいられなくなったな……。今日は本気で幽谷を捜《さが》そう。なるべく早く歌梨とやらの女人《によにん》を見つけて、幽谷殿の居場所をつかまねは……」楸瑛は何やら嬉《うれ》しそうな顔をした。 「それが、歌梨という女性はかなりの美女だそうですよ。会うのが楽しみですねぇ」  緯枚はまだ路上でのlびている大男を皮肉げにチラリと振り返った。 「ほっ、さっきみたいな女だったらどうする?」 「まさか。歌梨なんていう|優《やさ》しい|響《ひび》きの名前の女性がそんなわけないよ。……まあ、確かにさっきの女性もかなりの美女だったけど……まさかね」絳攸も、自分で言い出しておきながら、さすがに捜索《そうさく》相手があんな女なのは嫌《いや》だと思い直し、自分に言い聞かせるように額《うなず》いた。 「……まさかな」 「……ま、まさかなのだ」  うんうんと三人は額き、さっきの女性とは反対方向にそそくさと歩き出した。 「そういえば主上、|珍《めずら》しく邵可様のお邸《やしき》に行こうとほ言いませんねフ」 「ん? ああ、いいのだ。……待っていることがあるから」 「待っていること、ですか〜」 「うむ。そうしたら、|一緒《いっしょ》に行こう。きっと、おいしい茶州の野菜料理が食べられるぞ」 「なんだ、やけに具体的だな。なんで野菜料理で限定なんだ」  故意に、胡蝶の 「男には厳しい」発言を忘れようとした三人は、なるべく他愛《たあい》のない話を頑《ポん》掛《∫》ってしゃべりながら、とりあえず書画屋をあたることにしたのだった。          密命歯車や  そのころ、城では碧拍明が必死になって仕事を終わらせようとやっきになっていた。 (まずいまずいまずい! 幽谷がきてるということはあの二人もきてるはずー)  いつもフテフラしている幽谷だが、必ず三人一緒で行動している。……何ごともなければ。  しかし、何ごともないはうが珍しいことを拍明はよく知っていた。  この貴陽に三人仲良くきていたとしたら、絶対拍明のところに『訪ねる』という連絡《〓人∴∵、》はくる。  こないということは、またまたなんか|妙《みょう》なコトでバラバラになったに違いない。 (平日ならともかく、もしかしたら|今頃《いまごろ》誰か僕の邸にきてるかもしれないっていうのにー)  公休日にまさか仕事をしているとは夢にも思うまい。  頭を抱《かか》えた瞬間、湯呑《ゆの》みが飛んできて拍明の脳天にカーンと当たった。 「ウルア泊明!!上の空で仕事すんじゃねぇ! 余計帰るの遅《おそ》くなんだろが!! おら茶あ滝《1.》れたあとコイツを府庫に返しにいってこい! 俺は! 俺は今日彼女のご両親にゴアイサツに行くはずだったってのにこんちくしょぉおお仕事しろよ尚書《し喜プlしょ》;・・−1=�・l‥つつ!! こないだへソに仕事終わらせて夢見させるからうっかり約束しちゃったじゃないか  ー  つつつ!」  |先輩《せんぱい》官吏が怒《おこ》りながら泣き陳《・い》した。こんなコトは日常茶飯事《きは人じ》で、今さら拍明も|驚《おどろ》かない。  休日出勤とは、えてして人からイロイロなものを弔うものだ。理性とか、……彼女の愛とか。  別に彼女もいない的明は今まで休日出勤でも何とも思わなかったが、今日ばかりは違った。  一刻も早く仕事を終わらせ幽谷たちを捜すべく、速攻《そつこう》で出がらしの茶を掩れ、大量の資料を両手に抱えて府庫にスッ飛んでいく。焦燥《しよlつ卓こブ》感でいつもの三倍は速度があがるのがわかる。 (早く終わらせて家に帰って情報を集めないと!)  拍明は『悪鬼巣窟《あつきそうくつ》』吏部の名にふさわしい、鬼《おに》のような形相で府庫へ駆《か》けたのであった。  そうして駆け回る中、|途中《とちゅう》で何度か 「嫁御《よめご》おおおおおお」 「主上〜〜〜〜!」とやはり全力疾走《L? そう》で駆け回っているモコモコ羽令努とすれ違った。  五度目にすれ違ったとき、なんだかお互《たが》い妙な親近感が湧《わ》き、ちらりと視線を交《か》わした。  まるで以心伝心のように、その一瞬、二人は同時にグッと|握《にぎ》り|拳《こぶし》をつくった。  歳《レ】し》なんて関係ない、男同士、何かが通じ合った瞬間だった。  頑張ろう、と碧拍明は心を新たに猛然《もうぜん》と駆けた。  ……あまりに自分と幽谷のことを考えすぎていて、現在王が絳攸と一緒に城下に降りているらしいということを、 「うーさま」に教えることさえ忘れていた泊明であった。  ——そのころ、拍明邸《てい》の門前には、まさに彼が危惧《きぐ》していた通り、一人の男が訪ねていた。  それは短蛾楼で轍環に(故意ではなくとも)|嘘《うそ》を教えられて追い返された男であった。 「……え? 拍明くん、公休日なのにお仕事なんですかフ」  門番に泊明不在を伝えられた男は、なぜか逆にホヅとしたような顔をした。 「それじゃ、|邪魔《じゃま 》しちゃ悪いね。私が訪ねてきたことは、彼には言わないでおいてください」  もし歌梨とあの子が泊《こ》明邸《こ》を訪ねていたら、きっと拍明は門番に何かしら自分宛《あて》の伝言を残しているはずだ。不審《、{L人》そうな門番を見れば、誰《だれ》もきていないのだろうと、紋は当りをつけた。 (あー……でも本当にどこに行っちゃったんだろう……いつもながらボーッとしていた僕が悪かったとはいえ……まさかこんなに見つからないとは思わなかった……)男は少々焦《あせ》り始めていた。いつもなら、バラバラになってもだいたい見当を付けたところにいてくれた。離《ほな》れてもこんなに長い間見つからないなんてなかったのにー一�(でもまあきっと、歌梨さんは絶対あの子と一緒にいてくれるはずだから−)それだけはホッとしながら、次はどこを捜そうか考えた男は、偶然《ぐうぜん》近くの 「迷い描《ねこ》きがしてます」の貼《は》り紙を発見し、ボンと手を打った。 「あ、似顔絵描《か》いて捜したらいいのか。……でも勝手に描くなって言われてるんだよな……」どうしよう、と悩《なや》みながら、とりあえず今日明日の宿を決めた。 「……うーん、とりあえず今日捜して見つからなかったら、玉《ぎよ�ヽ》くんのとこに行って泊《と》めてもらおう……でも拍明くんが仕事してるなら、三部侍即《けレろう》も働いているのかな……」          ・藤・巻・ 「……う�ん、これ、贋作《がんきく》ってことは、描いてる誰か《111111》がいるのよね……」  秀麗は歩きながら、羅干親分のところで引き取らせてもらった十いくつの巻物のうち、一つを難しい顔で見つめた。 「巻いて持ち歩けるくらいの小品ぽっかり裏しーなるべく短時間で描けて売れるものだけ選んでるっていう感じょね……」ぶつぶつと考えをまとめる秀麗の隣《となり》を歩きながら、蘇芳は後ろを歩く超絶《らようぜり》美形の『家人』をそろりと見た。際《すき》あらはトンズラしようと画策していたが、そのたびにあのおっかない家人にひそかにとっつかまり、何度もタケノコを投げられたりして失敗つづきである。《ヽ》 「……あーのさぁ、画商のほうって、あのこえぇ親分が調べたけどわかんなかったんだろ?むりむり。君にそれ以上何ができんの」 「んt。そうなのよね。だから、別方向からちょっと調べてみようと思って。今のー私にできることっていったら、調べられるだけ調べて、なるべく早めに上申書出すことくらいだもの」蘇芳は横目で秀麗を見た。 「……あんたさー」 「なに」  蘇芳はじっと秀麗を見つめ、|溜息《ためいき》をついた。 「……なんでもわー」  ちなみに贋作の大半は静蘭がしよっている。最初は蘇芳に押しっけていたのだが、秀麗がタケノコを背中にしょったことで、秀麗と蘇芳が仲良く同じ格好をしているように見えたので、蘇芳から風呂敷包《ふろしきづつ》みを|奪《うば》ってしょったのである。しかし背が空いた蘇芳が今度は手提《てさ》げの金ぴかタヌキの置物を背中にしょったので、今では三人仲良く同じ格好で通りを歩いている。楸瑛あたりが見たら、 「……田舎《いなか》からでてきた三兄妹《きょうだい》?」とか言ったかもしれない。 「……で、これからどこに行くつもりなわけ?」 「えーと、『嘉永《かえい》書画』っていうお店」 「……なんでフ⊥秀露は羅干親分からもらった書翰《 「・よ小人》を蘇芳に差しだした。 「羅干親分にもらったこの情報からすると、|騙《だま》されて画《え》を買った入って、大半が『謎《なぞ》の画商』の口車に乗せられて直接買ってるんだけど、残りの人は、書画屋で選んで自分で購入《こうに博う》してる……嘉永書画って、そのお店の一つなのよ。はら、書翰に載《の》ってるでしょ?」 「ナこ、じゃあその書画屋のオヤジとかが『謎の画商』だとでもいうわけフ」静蘭は|呆《あき》れてこめかみをもんだ。 「タソタソ君……君、ちょっと短絡《たんら′〜》思考すぎると思いませんか」 「……ビーせ頭悪いよ」 「頭悪いんじゃなくて、使ってないっていうんですよ」  秀麗はどう説明したものか、ちょっと上を向いた。 「……うーんとね、タンタン。このさい『謎の画商』はどうでもよくって」 「いいのかよ」 「だって、親分が見つけられなかったのに私一人じゃむりってタンタンだって言ったでしょ」 「…………。……まあ、モーだよな」 「でも、贋作そのものにしぼって見れば、ちょっとおかしい点があると思うのよね」  静蘭がしよっている包みから、秀麗は巻物を一本とりだした。 「この贋作ねぇ……ちょうと引っかかるのよね……」 「はあ?」 「贋作を本物と信じ込ませて売るためには、絶対必要な前提条件があるじゃない?」  蘇芳はうーんとうなった。  秀麿はキラリと蘇芳のタヌキ軍団を指さした。 「銀のタソタソタヌキ軍団をよーく見ればわかるかも」 「これが?」  蘇芳は自分の格好を見回した。金のタヌキ置物が一つ、銀のタヌキは耳・腕《うで》・指輪と複数、白金のタヌキは首飾《くげかぎ》り一?…‥。銀のタヌキは複数……複数? 「あっ、モーか。真筆がどこにあるかバレバレだったりしたら、贋作売ってもすぐニセモノってばれるよな。真筆は行方《�くえ》知れずとかじゃなくっちゃダメなワケか。……んデでも、なーんか引っかかるなぁ。それってさぁ、おかしくない?なんで貴陽でわざわざ売るわけ?」  静蘭はバチバチと拍手《はくしゅ》した。 「そのとおりですね。王都貴陽で画を買うお金持ちや貴族は、相当目が肥えているものです。教養も高く情報網《もう》も広いですから、どこそこの貴族は某《ぼう》画の真筆を所持している、誰々の邸《やしき》には某君の画が飾ってあるなどなど、ちょっと聞けば鐘《かね》のlようにカーンと返ってくるものです。|自慢《じ まん》したがりが多い上に、贋作なんて一生モノの恥《はじ》。つまり、賀陽は碧都と並んで、贋作が流通しにくい場所といえるでしょうね」 「……だよな。じゃ、なんで〜」秀麗は巻物を軽く蔽《11、》った。 「わざわざバレる可能性の高い貴陽で売ってるのは、描き手が貰陽にいて、かつ他《ほか》の街に確実に運搬《うんは▼ん》できる能力のない、そんな大きな組織じゃないから、でしょうね。……まあ、胡蝶妓《ねえ》さんでさえ真贋判定に手こずった腕前だから、単に自信があっただけかもしれないけれど」しかし蘇芳はまだ首を捻《ひね》っていた。 「……んtとさぁ、そこだよな……。いくら腕前に自信があったっつっても、なんで『謎の画商』はそんなに自信もっていろんな贋作を売りまくれたわけ」秀麗はにっこり笑った。 「タンクソ! 全然頭悪くなんてないじやないの! なんで使わないの」 「…………なんか……褒《ほ》められてる気がしねー……」 「褒めてるのよ。まさにそこ、私もそこが気になったのよ。あっちこっちの大貴族とか王家が大量の真筆を所持しまくって見せびらかして自慢合戦とかしもやってるこの貴陽で、どうして一人の画商がこんなにたくさんの贋作をバレずに売ることができたのか。もちろん、高い技術の贋作だっていうのはもちろんだけど」どんなに良くできていても、別の誰かが『真筆』を所持していれば怪《あや》しまれるのは当然だ。  買い手に贋作を真筆だと確信させて売るには『真筆の所在を誰も知らないこと』。 「ふた月っていう短期間で、こんだけガソガン売ったってコトは、『謎の画商』は�」の贋作の真筆の所在は絶対知られてない』っていう確信のもとに売りまくったとしか思えないわ。買い手だってそうじゃなきゃ買わないし」 「だから、なんでこの貴陽でそんな確信がもてるわけ? 他の田舎街とかならともかくさt。                                                                  ふつうどっかのエライ高官とか、もってるかも知れないって思うのが普《す》通だろ。しかも今まで贋作だってバレてなかったってことは、この巻物全部真筆の所在不明だったってことだろっ・・こんな一点集中で大童に『所在不明』の贋作ばっか集められるのって、おかしすぎるだろ」 「それがねぇ、逆に考えれば、ぴったりハマったりするのよね……」 「逆? こtか?」 「……巻物逆さにして見てどうすんの。大旦那《おおだんな》の言葉、よく思い出してみてタンタソ」                                                                                                      1.   ...——しかし画を見た蘇芳は、ふっと何か違《ょY》和《.一∫》感を覚えた。 「……あれ、これ……」 「どうしたのフ」 「いや……。……で、逆だっけ〜逆……大旦那……ああ、そっか……」  蘇芳はひらいていた絵巻物をくるくると閉じた。 「『謎《なぞ》の画商』が『真筆』をもってればいいわけか……。そりゃ、贋作売ってる当人が『真筆』もってりゃ、『所在不明』に自信満々なのは当然だよな……自分とこに本物あるんだから」秀麗と静蘭は顔を見合わせた。……なぜタソタンは急に鋭《寸るど》くなったのだろう。 「そうね。そう考えればピッタリくるのよ」  ——『真《ヽ》筆《ヽ》』を《ヽ》、画《ヽ》商《ヽ》に《ヽ》売《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》という、桓蛾楼の大旦那。 「どうして|一介《いっかい》の画商がこんなに『真筆』をもってるのかっていうのも、その画商が正々堂々と貴族やお金持ちから『真筆』を買い集めたなら、別におかしくないわ。買いとった『真筆Lを手下の画師に見せてそっくりの贋作を描《か》かせる。で、それを『真筆』として売る。『謎の画商』が某氏からナニナこの画を買い取ったっていう噂が《うわさ》あればなお信憑《しんげよう》性は増すし。『贋作』を売ってお金を儲《もう》けて、『真筆』は自分の懐《ふところ》にしまうって算段よね。……しかも……」 「…………しかも?」 「……その代金に、ニセ金が混じってたでしょ」 「……ああ……なるほどね……」蘇芳はどこか適当そうに|溜息《ためいき》をついた。 「……『真筆』を買い取るとき、ニセ金使えば、二重にポロ儲けってことね。で、君は『謎の画商』そのものじゃなくて、こ《ヽ》の《ヽ》と《ヽ》こ《ヽ》ろ《ヽ》や《ヽ》け《ヽ》に《ヽ》『真《ヽ》筆《ヽ》hを《ヽ》買《ヽ》い《ヽ》集《ヽ》め《ヽ》ーて《ヽ》る《ヽ》画《ヽ》商《ヽ》の《ヽ》噂《ヽ》を《ヽ》訊《ヽ》き《ヽ》に《ヽ》、わざわざこの裏永書画に行くわけね。この店で、『贋作《がんさノ、》』が売られてたってことは、短娩楼の大旦那みたいに、その画商に直接会って買った可能性が高いから」静蘭は目を丸くした。 「……どうしましたタソタン君、いきなり回転が速くなって」 「……べっつにー」  ちょうどそのとき、嘉永書画に|到着《とうちゃく》した。          ・辞轟器・・ 「……なんなんだ、歌梨て女は……」  一日中歌梨という女を追って歩きづめだった絳攸はげっそりと肩《かた》を落とした。もともと文官の経俄には体力的にもうきつい。  どう考えでも歌梨という女は一日中走りっぱなしだとしか思えない。  宋太博にきたえられて実は底なしの体力の持ち主である劉輝は、まだ余力がある。が��−� 「でされば今日中に幽谷のー居場所だけでも確認《か′∴」人》したかったが……」  劉輝は目の傾《かたむ》きを見て、|渋《しぶ》い顔をした。……もうそろそろ城に戻《んご》らないと、さすがにまずい。  夜中まで戻らないかもしれないと、悠舜や珠翠に言ってくれはよかった。  そのとき、書画屋から難しい顔をして楸瑛が出てきた。 「楸瑛、何かわかったのか?」 「……いえ。でもそれよりもですね。気になったことが。ちょっとこの画《一へ》、見てください」  書画屋で買ったらしい画を、ザッと広げる。 「秀麗殿《どの》たちもこの店にきたらしいんですが、店主が門前払《ぼら》いしたので、この贋作は引き取れなかったみたいですね。間遵なのほ、この画の筆《て》蹟……」劉輝と絳攸が示されるままにその画をのぞきこむ。確かに、かなり出来のいい贋作だ。劉輝でさえ、気をつけて注視しなくてほ気づかないかも知れない。  が、パッと見た瞬間、《しゅんカlん》……どこか、頭の隅《づ一み》に引っかかる妙《争よう》な違和感があった。まるで|騙《だま》し絵のように、この絵のなかに、何かが隠《かく》れているような——1も『違和感』に気づいた瞬間、劉輝は思わず|叫《さけ》んでしまった。 「……待て……これ、幽谷の画に……どこか、似てる……」 「だと、思いました? 私もです。ものすごくよくできた贋作ですし、幽谷の画をよほど多く見たことがなければ、気づかないでしょうね。……静蘭も、多分気づいてないと思います。幽谷の画が少しずつ出回り始めたのは十年ほど前からですし……」 「うむ。だが、似てる『気がする』が、幽谷と言い切れない気がする……」幽谷の描く画は、ひとことでいえば無茶苦茶で異様な迫力、《はくりよノ、》だ。  たとえば風の中、一本の柳《やなぎ》の下をトボトボ歩く鬼女《きじょ》。美しい仙女《せんによ》が、醜怪な鬼《しゅうかいおに》に愛《いと》おしそうに手ずから桃《もも》を食べさせる画。これでもかというくらい画面一杯《いっぱい》に筆を描き込み、朱《しゅ》や青色を入れ、余白の美など考えもしない。調和とは無縁《むえん》の、見ただけで頭がぐるぐるするような異様で気持ち悪い�しかし目を惹《ひ》きつけずにはいられない|壮絶《そうぜつ》な迫力−。そうかと思えば、墨《すみ》の濃淡《のうたん》だけで月夜の山水、庵で滝《しlおー)たき》を見る隠者《いんじゃ》をさらりと描き、存分に余白の美しきを瀞かして見る者の息を呑《の》ませる�静語《せいひつ》で|優《やさ》しい、どこまでも遠く高く、この世の果ての深山に本当に自分が降り立ったかのような、吸い込まれそうに|繊細《せんさい》な画をボンと出してきたりもする。  あまりにも相反する魅力《みりょく》−それでいて、どちらともに|魂《たましい》に画を直接刻み込むような、余人に|真似《まね》のできない凄艶《せいえん》でどこか狂《くる》った迫力をもつのが、碧幽谷という画師だった。  それゆえに、碧幽谷は決して真似のできない千年の画師と言われている——。  この贋作は、碧幽谷特有の 「異様な迫力」を、微《かす》かに感じさせる。筆致《け▼つち》もどこか似ている。  けれど、本当に片鱗《へんりん》程度で、本人とは言い切れないのも確かだった。  楸瑛も違和感を覚えながらも劉輝に言ってみた。 「確かに、私も幽谷とは確信できないんですが……でもいまだに誰《だ一l》も完全な模写ができなくて、一つも模本ができない碧幽谷ですよ。贋作どころか手本に写しとろうにも無理なのに、『幽谷な気がする』なんて印象が与《あた》えられるほどの画師がいるなら、贋作なんかで稼《かせ》がなくてもとっくに正々堂々画壇《がだん》に立って脚光《きやつこう》を浴びてるでしょう」 「……まあ確かにそうだが……」 「……私も、ちょっと違和感はありますが、でも、この贋作の制作者が、幽谷殿、もしくは幽谷殿と何か関係があるのほ確かだと思います。もしかしたら、碧家の関係者かもしれません」  それまで|黙《だま》っていた絳攸が顔を上げた。 「だとしたら、この贋作の描き手は、『むりやり誰かに描かされている』可能性が高いな」  絳攸は拍明の毅然《きぜん》とした態度を思いだした。自由と芸術を愛し、守るのが碧家の誇《はこ》りと言い切り、一族を挙げて碧幽谷を守ろうとした。優《すぐ》れた画師の育成として技術向上のための模写ならいくらでも許すだろうが、『贋作kだけほ誇りにかけて決して許さないはずだ。  楸瑛も厳しい顔で領《うなず》いた。 「確かに……。描き手が幽谷殿にしても、碧家の関係者だとしても、これだけの高い技術の画師なら、わざわざ贋作づくりに手を染めるのはおかしい」じっと画を見ていた劉輝は、今日一日の歌梨という女性の足取りを思い返した。  鬼気|迫《せま》る勢いで贋作を片っ端《げL》からー調べている彼女は、何かを知っているのだ。  彼女が、幽谷とつながりがあるのなら、そして彼の身に何かが起こっているのなら。  捜《さが》して、一刻も早く無事な確保を。       ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ      ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ                     ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  幽谷は必要なのだ。どうしても。けれど、大々的に捜すわけにはいかない理由がある。 「……主上、お気持ちはわかりますが、今日は夕方までに本当に帰りませんと……」 「……わかってる。悠舜殿にも約束したし……また明日の午後捜しにこよう。いいか絳攸子」  絳攸はチラッと|脳裏《のうり 》に更紗《り{・.》の配下たちを思い描《えが》いた。……一応、明日も公休日だが−。 (すまん。明日も俺のかわりに休日出勤してくれ)  あっさり絳攸はそんなひどいことを(勝手に)決定した。実際、この件はある特別な理由から、最優先事項《じこう》に等しい。王が南《じか》に足を運んで頭を下げるのが必要なら、そうしなくては。 「もちろんです。この件を片付けるのが先ですからね」            轡態働歯繰l  �静蘭の笑顔《えがお》と話術(↑憫喝《ごうかつ》・タンタン心の感想)、蘇芳の『一応官吏です』をもって、『嘉永書画』店主から|近頃《ちかごろ》『真筆』を買っている何人かの画商を聞き出したあと、同じように秀麗は片っ端から書画屋をあたっていった。  そうすると、歌梨という謎《なぞ》の女性について首を傾《カし》げるハメになった。背にしょった巻物(贋作)の数は、またいくつか増えている。 「歌梨さんて……本当にナニモノなのかしら。何か知ってるのかしら?」 「おかげで贋作回収が楽ですけれどね。この通りではかなり有名らしいですね……相当の目利《めき》きなのは確かですし」なんと、あの転戦楼で一瞬だけ顔を合わせた歌梨という女性は、今口一日であちこちの書画屋に片っ端から瞥清《ごとう》の突撃《とつげき》をかけていた。鑑定《かんてい》のできない秀麗では回収は不可能と思い、『真筆を購入《こうに博う》している画商』の情報だけを期待していたのだが、胡蝶お墨付《すみつ》きの彼女が行く先々で『鑑定』してくれたおかげで、思いがけず回収できてしまった。幸い、短蛾楼の大旦那《おおだんな》をお得意様とするなじみの深い店が多く、邪険《じやけん》に追い払われることはあまりなかったのだがさ。  秀麗は一つ気になることがあった。 「……引き取るときに思ったんだけど、歌梨さんが『贋作』って言った画って、ことごとく買い手がついてたじゃない?……偶然《ぐうぜん》なのかしら……」  買い手の名は別々だったが、他に『真筆』もたくさんそろっている書画店で、狙《ねら》ったように『贋作』すべてに買い手がついていたというのは、なんだか出来すぎな気がする。 「誰かが……贋作とわかってて買ってる……のかしら……?」  静蘭はチラリと背後を見た。  ……羅干親分の店を出たときから\ずっと誰かがつけてきている。  今までの、秀麗の動向を適当に見張っているだけの、|素人《しろうと》同然の動きではなかった。  武官の身のこなしではないが、そっと影《かげ》にとけこむような埋没《まいげつ》ぶりほ玄人《くろうh二》だ。  秀麗を追っているのか、それともき?  蘇芳に目をやった静蘭は、まさかと思い直した。わざわざタンタソ君を追う理由がない。  静蘭の視線に気づかない様子で、蘇芳が|溜息《ためいき》をついた。 「……で? 次はドコに付き合わされるわけ?」 「あ、もう帰るって言わないのね、タンタン」 「……言ったって帰してくんわーだろ……」 「えーとね、問屋通りと、|途中《とちゅう》で金物屋さんにも寄って、あと−」  問屋通りと金物屋という言葉に、蘇芳は臼を点にした。……贋作となんの関係があるんだ。  秀寮はちょっと息をついた。 「……最後に、三太のおじさんとこにも行かなくっちゃね……」  �……本っ当に金物屋と問屋に寄ってるぜ……)  見つければすかさず寄っていき、なじみの店主なら何やら世間話をする。今も通りに面しているなじみの金物屋のおっちゃんのところで話し込んでいる。 「……なんであいつ、あんなに金物屋と問屋にこだわってんの?」 「タンタン君、わかりませんか?」 「全っ然、わかんねぇ」 「じゃあ、考えてみるといいですよ。使わないとますます頭がおバカになりますよ」  |涼《すず》しげな表情のやたら美形な『家人』を、蘇芳は横目で見上げた。ずーっと思っていたが。 「……あのさt、あんたさt、いくつ?」 「年齢不詳《ねんれいふしょう》ですから、ご自由に考えてください」 「絶対三十超《こ》えてるだろ。年齢不詳ってヤツは大概《たいがい》見た目より五歳は上なんだ。女と同じ」  静蘭のこめかみに青筋が浮《ょノ》いた。……三十だと? 実年齢より上に見られたのは初めてだ。 「……タンタソ君。良い度胸ですね本当に。君、女性に散々フラれてきたでしょう」 「……なっ、な、なんだよ。何を|根拠《こんきょ》にそんな」 「いちいち余計なひと言がダダ漏《も》れなんですよ! 心からの忠告をしてあげますが、さっきの言葉を女性に言ってみるといいですよ。あっというまに昇天《しようてん》させてくれますから」  これにはうっかり失言の多すぎる蘇芳も口をつぐむしかなかった。  ふと金物屋を見ると、秀麗は店主のおじさんでなく、十歳ほどの女の子と何やらしゃべっていた。しゃべっている……というか、少女は泣きながら秀麗に何かを言っていた。秀麗が慰《なぐき》めるように頭を撫《な》でて何ごとか答えると、少女はようやく顔を上げて領《うなず》き、涙《なみだ》をふくと深々と頭を下げて小路に消えていった。……金物屋の娘《む寸め》かと思ったら、どうやら違《ちが》うらしい。  そう、これもナゾの一つだった。一緒《い 「しょ》に歩いていれば、秀麗は行く先々で大人から子供からじーちゃんは−ちゃんまでよく誰かにとっつかまってなんか言われているのだ。秀麗がいちいち立ち止まって話を聞くものだから、これまたなかなか進まない。金物屋から戻《一Uド】》ってきた秀麗は、難しい顔をしていた。 「お嬢様、《!?し上て 「七Tま》金物屋さんはどうでしたか?」  ア……やっぱりここもお鍋《なべ》がちょっと高くなってるわ……。今まで気づかなかったのはウカツだったわ。あ�もう。でもこっち正ひと月くらい前からってことらしいから、……多分今のところまだあんまり出回ってないと思うのよね……」蘇芳はさっぱり意味不明だった。何を話しているのだこの二人は。 「あとわー……もう一つ気になってるのよね……」  秀麗のやけに難しい視線の先を辿《たど》れば、……なぜか塩屋。  蘇芳はついに訊《.毒」》いた。 「……なあ、あんたら何言ってるわけ。塩と金物屋が画《え》となんの繋《つな》がりがあんの」  すると、秀麗は目をバチクリさせた。 「え? 別に関係なんてないわよ」 「……はあ!?」  そのとき、うしろから女性に、笑みをふくんだ声をかけられた。 「……おや、問屋にちょこちょこ顔をのぞかせている女の子がいると聞いてきてみれば、やはり秀麗殿《どの》だったか」 「凛さん!」  柴凛は通りに並ぶ金物屋と塩屋、そして静蘭のしょった包みからのぞく絵巻物それぞれに、|素早《す ばや》く目を走ら漣た。次いで、小さく苦笑《くしょう》する。まったく……。  柴凛は無駄《むだ》なことは訊かなかった。 「何か私でお手伝いできることがあれば協力するよ」  秀麗はバッと顔を輝《かがや》かせた。          柵参会態鶴 「悠舜」  黎深が仕事を案外|真面目《まじめ》に手伝ってくれたおかげで、何気なく仕事や書翰《しょかん》を届けにきた官吏たちが 「自分の頭がおかしくなった」 「眼精疲労《がんせいひろう》がついに極限に!」 「ありえない幻《まぽろし》を見た。寝《ね》ないとイカソ」などとフラフラ帰ってしまった。特に吏部《l−ぶ》の官吏たちは見てはならないモノを見たかのように|扉《とびら》を開けた瞬間、速攻《しゅんかんそつこう》で閉めて|壁《かべ》に頭を打ち付け、昏倒《こんとう》する者が続出した。  T……黎深が真面目に仕事をすると、それはそれで支障がでるのですね……)  なかに一人、やけに|鬼気《きき》|迫《せま》る勢いで突撃してきた若い吏部官だけは、昏倒もせずにきちんと書翰を届けてくれた。若いのになかなか見どころがある。  悠舜ほそんなことを考えていたので、黎藻の呼び声に反応が|遅《おく》れた。 「はい?なんですか」 「……なぜ、例の件を風味に言わない?あいつの管轄《かんかつ》だろう」 「おや、あなたが国政に関心を持ってくれるなんて、嬉《う−わ》しいですね」 「関心があるのほ政事《まつりごし」》じゃない。お前のほうだ」 「……黎深、そういう言葉は私ではなく、百合姫《ゆりけめ》にいうものですよ」 「う、うるさいな。いいから答えろ」 「はいはい。……まあ、ちょっと他《はか》に、気になっていることがあらまして」  悠碑は戸部からあがってくる書翰に目を通した。そこにはある数値が書かれている。 「どうも、とってもよくできすぎていて、逆に勘繰《かんぐ》りたくなってしまうんですよねぇ……」  悠舜は羽扇《うせん》で口許《くちもと》を抑《おさ》えながら、小さな|溜息《ためいき》を漏らした。 「……こう、茶州で私がお相手していた方々は、ある意味まったく予測不能で行き当たりばっ……いえ、コホン、斬新《ギーんしん》な頭の使い方をして、こちらもたまにぎゃふんと言わせられることもあったのですけれど……」 「……ぎゃふんフ⊥ 「なんというか、久しぶりですねぇこの感じ……。碁《ご》の棋譜《きふ》のようにこんなにすっきりとハマる美しい段取りは、逆に感動するといいますか。……王都に帰ってきたと、実感しますね」黎深が顔を上げると、悠舜は小さく苦笑していた。その|穏《おだ》やかな表情には、以前の張りつめ            Ll乃   しよすlツそ.ったような怒りや焦燥感はもうない。  張り巡《めぐ》らされ退出い糸。綿密な権謀術数《けんぼうじゅつすう》の世界。なら;、  つなわた少しでも足の隊み出し方を間違えれば、まっさかさまに奈落に落ちる、綱渡りの頭脳戦。  昔は頭にきたこともあったけれど、今はなんだか笑い飛ばしたい気分になる。よくもまあこう頑張《がんげ》って色々考えるものだ。なんだかご苦労様ですと言いたくなってしまう。  世の中はもっと単純に、人生はもっと楽しく過ごせるのに。どうして複雑にするのだろう。 (……はあ……私も確実に燕背の|影響《えいきょう》を受けてしまっていますねぇ……)  相手がどんなに緻密《ちみつ》な計略を練っていても、時々燕青はそのすべてをカッ飛ばして 「正解」  をつかんだりしていたけれど、もしかしたらこんな感覚だったlのかも知れない。 「鳳珠には必ず伝えますから。さ、もう一頑張りです。お茶を掩《lY》れてくれてもいいですよ?」 「この私に茶を滝れろだと?」 「秀麗殿にカッコ良くおいしいお茶を掩れてあげられたら、索敵だと思うのですけれどねぇ」  黎深はシュバッと茶筒《ちやづつ》をつかんだ。  予想どおりの反応に、悠舜は思わず笑ってしまった。ワガマてなガキ大将を相手にしているようなこの感覚も、とても久しぶりで。……もう、この朝廷《ちょうてい》で息が詰《つ》まることもない。  どこか昔の自分を思い出す、若い王を|脳裏《のうり 》に措《えが》く。  何があっても王でありつづけなければならない彼のために。そして自分のためlに。 「少し、頑張ってみましょうか……」          。尊慮希鎗  ——柴凛に頼《ヽ》み《ヽ》ご《ヽ》と《ヽ》をして別れたあと、静蘭は秀麗が言う前に言った。 「最後は、王商家、ですね?お縦様」                                                 いl)上でりl七−ま  静蘭の言葉に、秀麗は領《うなず》いた。  もうそろそろ、陽《!?》が沈《Lヂ》みきる頃《ころ》になっていた。 『お嬢様はタンタン君と一緒にここで待っててください。王商家には私が行ってきます』  まさか静蘭たちに短娩楼での一件を聞かれていたとは思いもしない秀麗は、少し迷ったが、その言葉に甘えることにして、近くの茶屋で待つことにした。……秀麗にはまだ三太に返せる言葉が見つからない。 「……あーのさぁ、なんかわかんねーけど、これで終わりなワケア」  秀麗と背中合わせに団子を食べながら、蘇芳はそう訊《き》いた。ちなみに団子と茶の代金は静蘭のひそかな|脅迫《きょうはく》のもと、蘇芳が払《はら》わされている。なんでこんなことに。 『人に親切にすると、いいことがありますよ?お財布其《さいふそ》の二……いえいえタンタン君』  T……人でなしってあーゆーヤツをいうんだ……)  羅干親分配下のほうがよっぽど人間らしく見えてくる。というか、『お財布其の一』にされたどこぞのヤツの運命はいったいどうなっているのだろう。考えるだに怖《こわ》い。 「うん。今日はもう遅《おそ》いから、これで終わり」 「今日はってさ!…‥」 「だってまだ気になることがあるんだもの。明日、最後にある人のところに行ってそれを確かめて、凍さんに頼《たの》んできた情報をもらったら、一応終わりかしら」蘇芳はチラリと日だけで秀麗を敵《,h》り返ると、溜息をついた。 「……あのさt、もぉいーんじゃないの。てかそもそもこの贋作《がんき′1》出して『こーゆーのが出回ってるみたいです。調べてください』って上申書提出すれば|充分《じゅうぶん》じゃないの。なんでそんなに頑張っちやってるわけ。よくわかんねーけど、あんた何もしないでしばらくおとなしくしてろってことで謹慎《きんしん》させられたんだろ。あんたがそんなだからますます煙《汁む》たがられるんじゃないの」秀麗は団子を食べながら、|驚《おどろ》いたように蘇芳を見た。 「|珍《めずら》しくまともなこと言うのね、タンタン」 「……珍しくかよ……」 「でも、どうせ何もしなくたって、煙たがられてるのは同じだもの。あなただってそのために誰か|偉《えら》い人が私のとこに寄こしたんでしょ〜結局どっちでも同じなら……できるかぎり何かしたほうがずっといいじゃないの」蘇芳は串《くし》についてる団子の最後のひとつを口でちぎり、飲み込みながらその言葉を聞いた。 「贋作と、例のお金の件は、明日、気になること全部調べ終わったら、上申書にして出すわ。別に自分でつかまえようとか思ってるわけじゃないし。上申書出すにしても、細かい情報があったほうがいいだろうし。それにもともと私が街にでたのはー」 「……あーのきー」蘇芳は首を後ろに傾《かたむ》けた。背中合わせになっている秀麗の頭にゴツッとぶつける。 「いたっ」 「さっきの言葉って、ホンネ?」 「……は? L 「デキルカギリ何かしたはーがいいじゃん、てやつ。なーんか、自分に言い聞かせてるカソジに聞こえたから」秀麗は思わず息を呑《の》み——ー拍子《ひょうし》に団子をのどにつまらせた。 「ホンネなら、すごいけどわー。俺だったらさー、『こんちくしょー! 謹慎? ふざけんなよ!!』って喚《わめ》くよ? もうなんもかんもやる気なくなるっつーか。つか、できすぎじゃん、君。なんでそんなにさt、頑張っちやってるの、ホント。もしかして、書の周り、誰もかれも『頑張れ』とか『頑張ったね』しか言わないんじゃないの。まーそーしたら、『これからも頑張るわ、ホホホホ』としか言えないと思うケドさ−。おわーヤダヤダ。考えるだけでヤなカソジ。日がな一日ゴロゴロするのが好きな俺には耐《た》えられないぜ」  蘇芳は秀麗の様子に気づかず、タラタラとやる気なさそうに団子の串を指先で回している。 「……あーのきt、俺が出仕しょうがしまいが朝廷《ちょうて高》はフツーに動いてきたL、あんたがいなくたって同じだと思うワケ。いたら体《てい》よく利用されるけど、いなかったらいなかったで別に困らないと思うよ。てかさ、何かしてもしなくてもお邪魔虫扱《じやまむしあ二りか》いなら、やめたはうがよくない?」責めるでもなく、皮肉るでもなく、どこか違い目をして、蘇芳は独り言のように|呟《つぶや》いた。 「君さt、もう一人きりなわけじゃん。一人でガンバッたって、何も変わんないだろ。しかも謹慎中。この贋作だってさし、|普通《ふ つう》に考えて君よか先にセンモソカがとっくに気づいてお城になんか言ってるはずじゃないの。親分とかみたいな人がさ。金だってさー�一般人《しlつばんじん》より先に、絶対エライ人が気づいてるのがフツーだと思うんだけど。無意味にガソバッたってしょうがないだろ。せっかく|暇《ひま》になったんだから、ゴロゴロしてりやいtのに。あっかんねぇなぁ……」のどにつまっていた団子を、ようやく秀麗は飲み下した。深呼吸をして、牡《り�ら》に力をこめる。  そしておもむろに顔を上げると、蘇芳ににっこり笑った。 「……タンタン、ちょっと腹に力こめたはうがいいねよし 「は?」  秀麗は|素早《す ばや》く王商家のほうを見た。まだ静蘭が帰ってこないことを確かめる。よし。  次の瞬間、《し紬んかん》秀麗は蘇芳に思い切り逆頭突《ずつ》きを食《/、》らわせた。  ——ちょうどそのころ、慶張は仕事先から王商家への帰り道を歩いていた。転載楼を出たあと、直接仕事先に行って、ようやく帰ってきたのだ。  その手には、今日届いたばかりの一枚の書翰《しよかん》がある。それと、仕事先からもらってきた、綺《き》  ヽこー露《lし》に包まれた中くらいの箱がひとつ。本当は、秀麗に気持ちを伝えたあと、この書翰のことを話して、この贈《お′1》り物も渡そうと思っていたのだがー。 (……あーあ。こんなはずじゃなかったのにな)  あんまりにも秀麗が前しか見ないことに1恋《こい》も結婚《!?つこん》もいつのまにか彼女の周りでは政略になっていることに、思わずカッとなってしまった。  ……本当は、塵張にだってわかっている。ずっと昔から、官吏になる前から、いつだって前しか見ない女だった。自分が静蘭に遠く及《およ》ばないことだって知ってる。  知ってるけど、……そんなのは、あきらめる理由になんかなりはしない。 「……まーた仕切り直しかよ……つて、おわ!?」  何気なく角を曲がると、なんせそこの団子屋で、ちょうど秀麗が蘇芳に頭突きを食らわせているところだった。慌《あわ》てて|壁《かべ》に隠《カJ、》れる。  �……げっ……久々に見たぜ……あれすんげー痛いんだよな……)  そういえば、と慶張は思い出した。自分も子供の頃《ころ》、|怒《おこ》った秀岸にやられた|記憶《き おく》がある。 「……なんで俺、あんな女好きなんだろ……」  慶張は思わず後頭部をおきえつつ、ボソッと呟いた。   ーとはいえ、実際とんでもない|衝撃《しょうげき》を受けたのは蘇芳である。  無防備だった彼は、後頭部にもろに頭突きを食らった。 「いってぇ!!」  この戦法の最大の弱点は、秀麗自身にも同じ激痛が加わることだった。  二人はしばらく後頭部を押さえてうめいたのち、同時に振り返った。 「なにすんだー!」 「うっさいわね! 人がせっかくいろいろ整理してる真っ最中によりにもよってー!!」  振り返った蘇芳が見たのは、キッと帆《まなじり》をつりあげて、激痛のせいか、怒《Lカ》りのせいか、悔《くや》しさのせいか、それともその全部ひっくるめてか、目を真っ赤にさせている秀麗だった。 「強がんなくちゃやってらんないことだってあんのよこのタンタン!! カッコつけたい人にはうっかり強がっちゃうし、認められたい人には弱音なんか吐《よ》かないわ!! |頑張《がんば 》れっていってくれる人の期待には調子こいて応《こた》えたいって思うわよ! 無理するしかないに決まってんじゃないの! 世の中なにもかもうまくいきっこないなんて、当たり前よ! それでもねぇー」 「あだだだだ! ほっべた引っ張《.ひや》るのヤメロー!」 「それでも! 無理して良かったって、思うときがあるから!」  虎林《こりん》郡で出会った、シュウランの最後の言葉を思い出す。 『あたし、いつか絶対お姉ちゃんみたいな官吏《か人り》になるわ』  ただその一瞬で、何もかもが吹っ飛んだ、あのとき。  ——あのひとことさえあれば、もう何もいらないと思った。  自分がとった|行為《こうい 》と決断に、何一つ|後悔《こうかい》なんかない。一けれど《ヽヽヽ》。 『今の師《せ人せい》は官吏じゃないんだろ?師《せんせし.》これからナこするわけ?』  あの問いに、堂々と答えられる言葉がなくて。  何もすることがなくなって。何もしなくていいよと、言われて。  どこにいていいかわからない、陽炎《かげろう》のような不安を、打ち消すために。  何度も何度も自分に言い聞かせる。シュウランの言葉。影月や燕青の言葉。昔の自分が夢見ていた道を、今の自分がちゃんと歩いていることを確かめる。ここにいていいのだと。 『紅秀寮という官吏が必要だ』と、言われたいから官吏になったわけじゃなかったはずなのに、そのため艦走り回ったわけじゃないのに、一人でいると弱い心が頭をもたげる。  へそんなんじゃダメなかに)  理想がある。でも、その理想の自分に近づけないでいるから、その差を強がりで埋《lつ》める。  官吏として、目指す先にいる、尊敬する人たちには弱音なんて絶対吐かない。  �そのくらいの意地と衿侍《きょう・けレ》は、秀麗にだってある。  シュウラソの言葉。あのときの突き上げるような胸の熱さ。思い出して確かめる。  ご褒美《ほうげ》は、あれだけでいいのだと。思った最高の一瞬を。  もう一度つかむために。 「頑張ってよかったって思えるときがあるから! 強がるんじゃないの!!一回折れたら、立ち直るのって大変なんだから! 一回でも『もーいっか』なんて思ったら、それっきりズルズル行っちゃうんだから! 口だけでも偉《えら》そうなこと言わなくてどうすんのよ! カヅコなんてつけるわよ! 夢なんて見るわよ! 決まってんでしょ! 自己満足だって言われよtが、なんかできることやらなくてビーすんのよ! ただでさえお邪魔虫《じやまむし》なら、余計ゴクツブシ扱《あ二つか》いされるに決まってんじゃないの! 顔あげつづけるために必要なのよ! 毎回ガケツプチにいるってのに、ノン車に『意味ある』頑張り機会なんて待ってらんないわ!」|叫《さけ》んだ瞬間、秀露はタケノコをしょったまま立ち上がった。大声を出したらなんだか色々なモノがスカッと突き抜《ぬ》けた。久々にメラメラと闘志《とうし》に火がついたようなこの感覚。 「そうよ、団子なんて食べてる場合じゃないってのよ! 怒ったらなんだかやる気が出てきたわ。タンタンが何言ったって、私は明日まで勝手に頑張りますからね!!」  諷爽《さつそう・》とタケノコを取り出し、高々とかざしての宣言に、蘇芳は目をバチクリさせた。 「……へーえ」  相も変わらず、適当そうに頬杖《ほおづえ》をついて、そんなことを|呟《つぶや》いた蘇芳に、秀麗は我に返った。  慌てて辺りを見回し、次いで手にしたタケノコに気づいた秀麗は 「ぎゃっ」と叫んで包みなおした。こんな台詞《せり▼ふ》、静蘭とかには絶対聞かれたくない。  落ち着くべく茶を飲み始めた秀麗に、蘇芳はもう一度、今度は 「ふーん」と呟いた。  ——団子屋の壁によりかかって聞いていた慶張は、手にした書翰と箱を見下ろした。 「……なーんで俺、あんな女好きなんだろ……」  自嘲《‥しちょう》気味に笑ってもう一度呟くと、慶張は別な道を通って家路についたのだった。  静蘭がようやく用を終えて茶屋にきてみれば、秀麗がまるでやけ食いのように団子をむさぼり食っていた。……十本は竹串《たけぐし》が積み重なっている傍《かたわ》らで、蘇芳が|呆《あき》れたように見ている。 「あっ、あら、静蘭! ほほほ、遅《おそ》かったわね」  ……お嬢様が《!?レよヽワ亀−ま》 「ほほほ」などというときは、何かしらうしろめたいことがあるときだったが、静蘭は何も言わなかった。とりあえずやけ食いで発散できる類《たぐい》のものなら心配はない。 「お嬢様、三太くんのおじさん、当たりでしたよ。|証拠《しょうこ》も事ただいてきました」  静蘭は手にした小さな巾着を揺《きんらやく坤》らした。カチャンと、硬貨《こうカ》の音が響《ひげ》く。  秀麗は思いついて蘇芳を振り返る。そういえばタソタンのお父さんも被害者《什▼がいLや》だった。 「タンタンも、今日家に帰ったら、金貨をこっそり量ってみたほうがいいわ。三太のおじさんみたいに、画《え》の代金にニセ金が入ってる可能性が高いから」 「……へいへい。わかったよ」  そのとき、蘇芳が|僅《わず》かの間、沈黙《ちんもく》したことに、このときの秀欝は気づかなかった。 「じゃ、帰りましょうか」          ・器・器・ 「ええっっ!?今日家に帰らしてもらえないんですかー!?城で泊《しJ》まり!?」  死ぬ気で仕事をしていた拍明は|先輩《せんぱい》官吏の無情な言葉に、思わず|絶叫《ぜっきょう》した。  先輩は拍明以上にフッとやけっぱちな笑《え》みを|浮《う》かべた。 「ちなみに、明日の公休もナシだ。夜までがっつり仕事だ。俺たち男だ・ろ!?」 「なんでですかー! わけわかんないこと言わないでください‖‥」 「俺がききてぇ==|珍《めずら》しく紅尚書が《しようしょ》尚書令のとこで仕事なんかしやがるから、バッタバッタと吏部官がぶっ|倒《たお》れて人数たりねんだよ! 侍郎《じろう》もまたズラトンだとぉ——ちっくしょお目‥」ついに彼女の親御《おやご》さんにご|挨拶《あいさつ》に行けなかった先輩は、今度は男泣きに泣くかありに手近な硯《すずり》を壁に思い切り投げつけた。−と思ったら手元が狂《くる》って岐璃《はり》の窓を突き破り、池まで飛んで、ぼちゃんと落っこちる音がした。そして拍明はトソズラーズラトソを新しく覚えた。  拍明は|呆然《ぼうぜん》としつつも、頭の片隅《かたすみ》でぼんやり現実を考えた。  T……ああ……また戸部尚書に睨《にら》まれる……今度も僕が謝りにいかされるんだろうな……)  硯代と墳璃代と修理代、計上。こうして今年も吏郡はまたまた備品紛失《ふんしっ》省庁連続第一位を更《こう》新《しん》するのだろうと、拍明は思った。とりあえず尚書が変わらない限り、記録はつづくはずだ。  しかし痢明はぐらぐらする頭をおさえ、なんとか言ってみた。 「あ、あのぅ……ちょっとだけ……一瞬だ《いっしゅん》けでも、あの、家に、帰らー」  ハッと拍明は口をつぐんだ。同じ室《へや》にいた全吏部官が、鬼《おに》のような目で泊明を睨んでいた。  T……ていうか、鬼だ……)  最後まで言ったら殺される。拍明はそう感じた。 「…………な、なんでもありません…………」 「オラ仕事だ仕事! 恨《うら》むなら鬼畜《きちく》尚書と侍即を恨め! 闇討《やみう》ち万歳誰《バンザイだれ》か黒狼《こくろう》呼べやー!!」  そうだう‖‥という悲しい嘆《なげ》きが室を包む中、痢明はガックリと肩《かた》を落としたのだった。、         ・器・翁鎗 「胡蝶。この画、そろそろ飾《かぎ》ろうと思うんだよ。|充分《じゅうぶん》一人で堪能《たんのう》したからね」転載楼大旦那《おおだんな》は、ホクホクと落款《らつか人》のない、無名の新人の画を嬉《うれ》しそうにもってきた。 「やっぱり一階の中央、入ってきた人証もが見える場所に飾ろうと思うんだけど、いいかな」  胡蝶は|驚《おどろ》いた。そこは、桓蛾楼でいちばん名誉《めいよ》ある場所だ。趣味人《しゅみじん》ならそこに誰のどんな作品が飾ってあるか、必ず目を光らせるし、自ら作品を手がける一流の文人たちはそこに自分の作品が飾られることを望む。 「……驚いたねぇ。相当気に入ったん寵ね、大旦那」 「うん。そこに飾れば、誰か、自分が描《か》いたって、言ってくれるかもしれないし」  にこにこ子供のように嬉しそうな大旦那に、胡蝶は苦笑《′1しよ∴ノ》した。 「負けたよ。わかった。じゃ、この花街一の妓女《ぎじょ》・胡蝶手ずから飾ってやろうじゃないか」 「本当かい7・じゃ、お願いするよ! 見るのを楽しみにしてるからね」  大旦那は胡蝶に巻物を渡《わた》すと、飛ぶように自分の室に戻《もご》っていってしまった。 (そいや、歌梨は今日帰ってくるのかねぇ……)  長い付き合いとはいえ、どこかおかしな歌梨だが、ちゃんと花代を払《はら》う上客だ。何もされずにお金をもらえると、ひそかに妓女の−間では大人気だったりする。 「……おや、こりゃ、確かにかなり将来有望……!」  言われた場所に画を飾り、遠くから改めーて眺《なが》めlた胡蝶は、大旦那の最高のー評価に|納得《なっとく》した。  もちろん、当代随一《ずいいち》との呼び声高い幽谷には遠く及《およ》ばないが1新人にしてほおそろしいほどの才能だった。落款がないのが本当に惜《お》しい。まったくどこにこんな才能がひそんで−。 「……うん? この画……どこか……幽谷に……?」  そのとき、玄関《げんかん》の扉が《とぴら》闘いたかと思うと、全身|汗《あせ》だくの歌梨がよろめくように入ってきた。 「歌梨!?ちょいとあんたいったいー」 「……み、見つからなかったですわ……」 「まったくあんたはいったい何さがLてるんだい?」  胡蝶が慌《あわ》てて抱《だ》き留めると、歌梨があえぐように顔を上げた。 「胡蝶……ちょっと|訊《き》くけれど、あたくしを訪ねてきたダサくて唐変木《とうへんぼく》な男はいなくって?」胡蝶はますます目を丸くした。歌梨が男のことを口にするなんてなんの天変地異だろう。  楸瑛が追い返してしまった男のことなど知るよしもなかった胡蝶は、当然首を振った。 「いや? 聞いてないけどねぇ」 「……どこまでも唐変木な男ですことっっっ=こ|怒《おこ》った瞬間に、ふと胡蝶の肩越《ご》しに画を見つけた歌梨は、大きな目を極限まで見開いた。 「���あの画は!!」 「うん? ああ、やっぱり歌梨も目を付けたかい。なかなかの出来−」 「見つけましたわ!!」  歌梨は胡蝶の腕《うで》をふりほどいて、飾ったばかりの画に突進《とっしん》した。  食い入るように見つめ�|叫《さけ》んだ。 「植木屋と庭師ですわ‖‥」  そのあと、ついに力尽《ちからつ》きたのか、その場で歌梨はバッタリと気絶したのだった。 「……植木屋と庭師?」  ……その画はただの風景画だ。さすがの胡蝶も、意味不明な叫びに目を点にした。とりあえず倒れた歌梨を室まで運ばせようと、手下の男たちを呼ぶ。  う…‥翌朝、大旦那は飾ってあるはずの画を眺《なが》めようといそいそと急ぎ、|煙《けむり》のように画が消え失せているのを見た瞬間、無言で|卒倒《そっとう》した。 『あの画はあとで絶対返しにきましてよ!!ほんの少しだけお借りさせていただくわ!』  同じく翌朝には消えていた歌梨が書き残した紙を見せ、しくしく泣く大旦那を、胡蝶は手を尽くして慰《なぐさ》めたのであった。          ・巻・*・ 「ふ。ふふふふふふ。見ているのだうーさま!」  約束通り夕刻までに城に帰り、悠舜に事情を説明した劉輝は、その晩気を取り直して、幽谷とは別の件に頭をめぐらせていた。幽谷捜《さが》しに本腰《はんごし》を入れる前に考えていたことをザカザカと料紙に書き出していく。  そのとき、タダタ、という|恐怖《きょうふ》のかわいらしい足音が聞こえ、劉輝はギクリと手を止めた。 「主上! どこにおわしまするー!」  バタン、とやはりかわいい音が間近で聞こえる。劉輝は息を呑《の》んだ。 「……く……ここにもおりませぬか……」  しょんぼりとした声で、扉が閉じられる。タタタタ、という足音が遠ざかるのを確か塑机《つ.く》案《え》の下で|執筆《しっぴつ》していた劉輝は、思わず詰《つ》めていた息を吐《ま》き出した。得意げに笑う。 (ふふ……さすがのうーさまも、まさか余が机《ヽ》案《ヽ》の《ヽ》下《ヽ》で《ヽ》書きものをしているとは思うまい)  誰も思わない。 「……|宰相《さいしょう》会議で通すには……最低でも過半数の賛成は……説得の仕方は……」  ふと、劉輝は今日、久しぶりに聞いた秀麗の声を思いだした。  �秀麗に対する、有《ヽ》能《ヽ》な《ヽ》補《ヽ》佐《ヽ》あ《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》の《ヽ》成《ヽ》功《ヽ》という論は、ある意味で正しい。秀麗と影月に、有能かつ信頼《しんらい》できる官吏《かんり》を選んでつけたのは劉輝だ。危地に赴《おもむ》く新米官吏たちへのその措置《そち》は、当然だ。けれど実績を上げた以上、これから先はその言葉を封《ふう》じていかなくては秀麗は前に進めない。一人になった秀麗がどう動き、何を成せるか、守り手のいなくなった秀麗に、誰が、どんな思惑《おもわく》をもって関《カカ》わってくるのか。今回の謹慎《きんしん》はそれをはかるための措置でもあった。  ……それでも、劉輝の不当な措置も、秀麗の不当な謹慎も、消えるわけではない。  三太の言葉に、何一つ反論しなかった秀麗。  その言葉が正しいと、秀麗はわかっている。  ——桜が咲《七−》くまで。  たったひと言。白い余白。書かれなかった心。それを思って、……短く、息を吸う。  ……待っているから。  そのときがきて、秀麗の心が決まったら、何を言われても受け止める。 「紅秀麗」にはその資格があり、 「紫劉輝」にはその義務がある。−官吏と王では無理でも。 (秀麗は、私《ヽ》を見てくれるから)  たった一人、秀麗だけは。  少しだけ瞑目《めいもく》したあと、劉輝はまた筆を取り直し、料紙に向かった。   ー翌朝、何気なく仕事にきて、知らずに寝《ね》ていた劉輝の頭をべしゃっと踏《ふ》んづけてしまった絳攸は死ぬほど|仰天《ぎょうてん》し、起きた劉輝《.》に王の|威厳《い げん》がどう.のと怒り、踏まれた劉輝はなぜ被害者《ひがいしゃ》の自分が説教されるのかと、頭をさすりつつなんだか理不尽《り・高一じ大》な気分を味わったのだった。          義歯疇曲闇錬  士商家からの帰り、秀麗の夕飯の|誘《さそ》いを断って邸に戻《やしきもゾし》った蘇芳は、その日の夜中、ふらりと庭院《にわ》に出た。手の中でカチャリと鳴るのは、何枚かの金の貨幣《かーぺい》。  ぶらぶらと春の夜の庭院をそぞろ歩く。  下級貴族だが、金は中級貴族よりもある彼の家は、邸の他《ほか》にいくつか離《はな》れもある。  蘇芳は何かを少し考えたあと、そのうちの二つに足を向けたのだった。   …■■−  最後のカケ17  次の目の午後、秀麗と静蘭は訪ねてきた蘇芳に|驚《おどろ》いた。 「タンタン! きてくれたの!」  帰宅のあと一日を振《ふ》り返って我に返り、被害者とはいえ初対面の男を引っ張り回したことを反省していた秀鹿は、さすがに蘇芳がきてくれるとは思っていなかったのだ。 「……そこのおっかない家人が、こなかったらタヌキに呪《のろ》われますよって言うからさー……」確かに言ったが、静蘭も本当に来るとは実は思っていなかった。ちなみに、見る限りまた彼はタソタンタヌキ軍団をすべて身につけている。  相も変わらずどこかやる気なさそうに、空フタラとしている。 「とはいっても、さすがの俺も付き合うのは今日で最後だからな……」 「ありがとう! じゃ、行きましょう」 「…うて、ドコに?」 「工部の指侍即《じろ、つ》のお邸」            しばたた  蘇芳は勿論、同じく行き先を聞いていなかった静蘭も、そろって目を瞬いた。  静蘭は首を傾《かし》げた。もし画《え》の鑑定《かんてい》とかなら、胡蝶で事足りるはずだが一。 「胡蝶ではだめということですか?」 「うん。ちょっと、確かめたいことがあって。管尚書《かんしようしょ》と欧陽侍郎の性格からすると、吏部みたいに公休日|潰《つぶ》して仕事はしてない気がするのよね。仕事は仕事、休みは休み、ちゃんと区切ってそうだし。一応、文《ふみ》はだしておいたけど、お邸にいてくれるかしら」(……つーかホントピーなってんだよこの女のツテって……)蘇芳はげっそりと長息した。あとがつづかない。いくらほとんど登城もしないでブラプラしている蘇芳でも、侍郎の位くらいは知っている。親分といい、まったくなんなのだこの女は。  そうして今日も今日とて、蘇芳は静蘭に引ったてられるように出かけたのだった。          ・器・巻・  悠舜との約束通り、午前中は|真面目《まじめ》に仕事をしていた劉輝は、午後さっそく街に降りた。  今日は、九一日使える。ところが、歌梨という女性の居場所を配下にさぐらせていたはずの楸瑛が、おかしな顔をして首を捻《ひね》っている。 「どうしたのだ鰍喋、もしかして見失ったか?」 「いえ……昨日同様、かなり派手に町中を駆《わ》けずり回ってます。が……」  絳攸は掌に拳《てのひらこぶし》を打ち付けた。目が据《す》わっている。 「が、なんだ?今日はどこの書画屋だ。こうなったらどこまでも追ってやる」 「……いや、今日はね……貴陽中の庭師と植木屋に片っ端《ぱし》から突撃《とつげき》かけてるみたいでね……⊥その言葉を二人が理解するまで、しばらくかかった。 「……庭師と植木屋……?」 「……そう」 「わけわからんにもほどがあるだろが! なんで昨日が書画屋で今日が庭師と植木屋なんだ!!」 「そりゃ私が聞きたいよ……どうします、主上?」 「い、行くしかあるまい」  昨日を考えると、今日も一目、歌梨という謎《なぞ》の女性を追っかけて歩きっぱなしな予感をビシバシ感じながら、劉輝はそう言ったのだった。 「今日は、使えるだけ軒、《.こヽるよ諷》使いましょうね……」  楸瑛の言葉に、学習した劉輝と絳攸は無言で領《うなず》いたのだった。          ・翁・翰・  一方、金を払《はらー》って軒を使うという発想がない秀麗たちは、何度蘇芳がこっそり提案しょうとも歩いて歩いて歩きまくった。相変わらず秀麗が街の人にたまにとっつかまって話し込んだりするので、三人がその邸に|到着《とうちゃく》したときには、むしろ夕方に近い時間になっていた。 「……わぁt。ここが欧陽侍郎《おうようじろう》のお邸なんだ……」  秀麗はポカソと口を開けて邸宅《ていたく》を見上げた。なんというか、まんま欧陽侍郎の印象を邸の形にしたという感じだ。 「……なんか、ジャラジャラした邸だな……」  ポソヅと蘇芳が|呟《つぶや》いたが、これには秀麗も静蘭も何も言えなかった。  連なる|壁《かべ》の端を見れば、思っていたより大きくはない。多分印可邸のほうが広さはある。 「……まあ、確かに、趣味《しゅみ》は良いんですけれどね……」  静蘭もそれは認めた。確かに趣味はいい。どこもかしこも|完璧《かんぺき》である。龍蓮《りゆうれん》のようにナニかが好《っ》き抜《ぬ》けていたりはしない。ただし、可能な限り、あちこちいろいろ彫《ま》ったり飾《かぎ》ったりしてあるので、なんだかジャラジャラ感があるのである。とはいえ門からのぞく限り色彩《しきさい》感覚も庭《に》院《ーJ》の造りも|絶妙《ぜつみょう》だし、流行の先端《せんたん》と伝統の格式を見事に和合させた築造は|素晴《すば》らしい。欧陽侍郎なら|間違《ま ちが》いなく 「似合ってるからいいんですLというだろう。事実そのとおりである。何か言いたいけれど何も言えないーそれが欧陽玉なのかもしれない。 「失礼ですが、先ほど文を寄こしてくださった、紅秀麗様でいらっしゃいますかフ⊥突っ立ったままの三人を見かねたように、門番が声をかけてきた。慌《あわ》てて門番を見た秀麗はぎゃふんと言いそうになった。(も、門番さんの身ぐるみ鮒《.ふ》いだら、我が家の家計半年は浮《う》くわ絶対⊥門番でさえ、上から下まで一分の|隙《すき》もない服装をしている。門番がこれならば十——�(休日のー……欧陽侍郎の衣《きぬ》って……ど、どんな感じなのかしら……)  秀麗はゴクリと唾《つば》を飲み込んだ。心の準備をしてくれはよかった。  そんな心中などいざしらず、気のよさそうな門番はにっこりと笑った。 「主人より、承《うけたまわ》っております。どうぞなかへお入り下さい」  ——休日の欧陽侍郎は、名門貴族の名に違《たが》わない完璧な格好をしていた。 「まったく、なんですかあなたは。急に文を寄こして」  官服でないぷん、ジャラジャラ感は二割増、それによる豪華洵欄《ごうかけんらん》さは五割増であった。  これが、見せびらかしているのならただの嫌味《いやみ》だが、彼はまったくいつもどおりであった。  これが彼の普段着《ふだんぎ》なのだと思わざるを得ない。たとえていうなら、休日の藍将軍にジャラジャラいろいろくっつけた感じだ。休日、邸でくつろごうとするなら装《よそお》いに手を抜くのが普通なはずだが、彼はまったくその逆らしい。休日こそ本領発揮とばかりに思う存分装っている。 (……し、しかもやっぱ�ちゃんと似合ってるし……)  見事な貴公子ぶりを遺憾《いかん》なく発揮している。 「す、すみません欧陽侍郎。せっかくのお休みに、急にお|邪魔《じゃま 》してしまいまして」  秀麗はぺこぺこと頭を下げた。なぜか秀麗だけ先に適されたので、一対一だった。 「休日に、うら若い女人《によにん》がいきなり男を訪ねるものではありません」 「す、すみません」 「しかもこんな時刻に……もうそろそろ黄昏時《たそがれごき》ということわかっているんですか」 「すみません!」 「あなたは謹慎《さんしん》中なんですよ。なのにまたぞろ私を何かに巻き込もうとしてますね」 「う……そ、その……巻き込むというわけでは」 「まあ、茶州ではそこそこよくやったと認めるのはやぶさかではありませんが」 「すみまー……え?」  平身低頭で謝りまくっていた秀麗は、顔を上げた。  ッソとそっぽを向いた欧陽侍郎は笑ってこそいなかったが、|怒《おこ》ってもいなかった。 「あなたに根性が《こんじょう》あることくらいは、認めましょう。官吏《かんり》として認めるかどうかほこれからの′あなた次第《しだい》ですが、先日の『気にくわない』に関しては撤回《てつカ、い》しますよ。棚《たな》からポタモチ官吏にしては、まあよくやりました」秀麗はみるみる顔を明るくした。礼を言おうとしたが、それを見越《みこ》したかのように欧陽侍郎                                       、ノは素早く言葉を継《′▼》いで言う際をなくした。 「……で? ご用件はなんですか」 「画を見てほしいんです」  スッと、欧陽侍郎の顔から表情が消えた。 「……見せてみなさい」  別室で得たされていた蘇芳と静蘭は、しばらく無言だった。 「……タンクソ君」 「……んー」 「どうセす。昨日今日とつきあって。お嬢様と結婚《じょうさまけつこん》したいって思いましたか?」 「いや、全然。むしろ絶対嫁《よめ》にしたかねー……」 「なんですって?」  静蘭はムッとした。蘇芳がまじりっけなしの本音で言ったことがわかったからだ。結婚したいと言われればそれはそれで腹も立つが、絶対したくないとは何ごとだ。  けれど蘇芳はどこか違い目で、ポッッと|呟《つぶや》いた。 「……|一緒《いっしょ》にいると、疲《つか》れる。頑張《がんぼ》りすぎだろ、あいつ」 「それが何か悪いんですか?」 「悪かないよ。エライと思うよ。けどさ、世の中にはそんなに頑張れない人間もいるワケ」 「君みたいな?」  蘇芳は怒らなかった。適当な仕草で淡々《たんたん》と領《うなず》いた。 「そ。なーんであんなに頑張れるかなー……」 「お嬢様に聞いてみればどうですか」 「……そーだなぁ……」 「タンタン君」 「なに」 「君のように初対面で私からこうも本音をポロポロ引き出したひとは久々です」  静蘭は|珍《めずら》しく、腹蔵のない笑《え》みを小さくひらめかせた。 「腹に一物あるひとに、私は決して本音は言いません。言えないように育ちましたからね.。まったく君は正直なひとですよ。貴族官吏にしては、ずいぶんと根がまっすぐです」 「……俺が? まさか。ふっー以下だと思うけど。紅秀麗みたいになんかに必死になったりしないし、長いものには巻かれるし、親の金で遊んでるし、頭悪いし、仕事しないLL 「人として、まともな感性をもっていると言ってるんですよ。長いものに巻かれたり、親の金で遊んでることを『ふっー以下帖だと思ってるわけでしょう。なかなかいないんですよ。貴族で、官吏で、あなたの歳《ゝJし》まで、そう思ったままでいられるひとはLl 「………………だから? 別に、偉《えら》くもなんともないだろ、そのくらいのこと。結局、俺は何もしないし、何も変えたりしない。俺も世界もなんにも変わらない。ふっー以下のままだ」 「なるほど。君は、『ふっー以上』になりたいんですね?」初め−て、蘇芳の表情が微《・乃一,》かに変わった。  静蘭はそれに気づかないふりをした。 「たとえば、お嬢様のように、とか?」 「……じよtだん。何言っちやってんの、あんた」  蘇芳は深々と|溜息《ためいき》をつくと、少し垂そうに頭をふった。 「……言ったろ。俺は努力もキライだし、すぐにいろいろ投げだすし、あきらめも超《ちょう》早いし。世の中うまくいかなくても、誰《だれ》かさんみたいに熱血で立ち向かったりしない。普通でも普通じやなくても、ビーでもいいよ。ゴチャゴチャ頭の中で考えたって、現実の俺は結局、過ぎてくものをただぼーっと見てるだけだし」 「本当に?そう思ってるんですか?」 「実際そtだもん、俺」 「ふーん。そうですか」 「……なんだよ」 「いいえ、別に。そういえば、行く先々でお嬢様が街の人と話していた件ですけど」 「……なに、いきなり」 「たとえば昨日は金物屋さんの前で、泣いてる女の子と話してたでしょう」昨日は、という言葉に、蘇芳は顔を上げたが、何も言わなかった。 「あの女の幸のお母さん、このあいだ亡《な》くなったんですよ。産後の肥立ちが悪くて」 「……え」 「そのときお父さんは行商に出ていて不在で、生まれたばかりの弟を抱《・乃{り》えてどうしていいかわからなくて、|噂《うわさ》をたよりにお嬢様のとこに駆《か》け込んできたんですよ。慌《あわ》ててお嬢様がご近所のおばもゃ…奥様方に頼《たの》んで人手を募《つの》って、なんとか落ち着いたんですけどね。で、昨日はあの女の子は、お嬢様にお礼を言いがてら、頼みにきたそうですよ。『お母さんみたいに、お産で亡くなる女の人を減らしてください』って」 「……それ、お礼じゃないじやん。つかなんでも相談屋じゃないんだぜ官吏ってのは……」 「でも、官吏に言わなかったら誰に言うんですそんなこと。昨日のお嬢様は、贋作《がんさく》の件の他《ほか》に、きっとお産の上申書も書いたでしょうね」 「……昨《ヽ》日《ヽ》の《ヽ》って、まさか……」ふと、金物屋で秀麗が呟いていた言葉を思いだした。 『やっぱりお鍋《なべ》がちょっと高くなってるわ……。.今まで気づかなかったのは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ウカツだったわhその、言葉の意味。 「お嬢様は別に、贋作のために街に出たわけじゃないですよ。茶州から帰ってきてからはとんど毎日、|暇《ひま》を見つけては街に出かけて色々見たり聞いたりして、思ったことを家に帰ってまとめるのが日課になってますから。昨日はたまたま贋作|騒動《そうどう》にぶつかっただけです。五日前はどこぞのお金持ちの使用人が泣く泣く訪ねてきて『うちの旦那《だんな》様が我が子のように可愛《かわい》がっていた羊のミーちゃんが死んだんですが、旦那様は 「ミーちゃんは私の娘だ《むすめ》。娘として葬式《そうしき》を挙げる! ミーちゃんのために立派な着物と飾《かぎ》り立てる宝石と棺桶《かんおけ》を買ってこい」というんです。  お願いします、なんとかしてください』なんてやってきて、見事に解決したりしましたよ」 「え、何それ、どうやって解決したの。すっげー気になる」 「あとでお嬢様に聞いたらどうです。まあ、そんな感じで、毎日何かしらやってますから、別に昨日や今日が特別な一日だったわけじゃありません。上申書だって、毎日何かしら書いてますし。タンタソ君いわく、遠…駄《むだ》な努力』というものを毎口飽《あ》きもせずやってるわけですね」 「……わ�信じらんねぇ……俺には絶対ムリ」 「タソタン君、いいことを教えてあげましょう。『特別な人生』を送りたければ、別に自分が『ふっー以上』にならなくてもいい方法があるんですよ」 「はあフ」 「頑張って考えてみてください。別に難しくないですから」  蘇芳はチラリと静蘭を見上げた。読めない微笑《げしょう》も、昨日と今日で何だか慣れた。 「……なあ。あんたが三十過ぎって言ったこと、撤回《てつかい》するよ」 「おや、ふっ、いいですよ、快く謝罪を受け入れ——」 「その達観、|間違《ま ちが》いなく四十越えてるぜ。じじ臭《くき》すぎ。どうやって若作りしてんの。秘薬? でかさ、あんたみたいなのって、カツコつけすぎて本命にはなんにも言えなくて結局そのまま終わるヤツの典型�おっわー! なんでそう簡単に抜《ぬ》くかなあんた!」 「……タンタソ君……いますぐ謝ったら、いいことがありますよ?命日が今日から五十年も延びるんです。お得でしょう。ね?」 「……いやだ!」 「なんでですか!」 「なんかあんたにいっぺんでも属《くつ》したら、この先の人生イロイ? 支障がある気がすんだよ!」 「……タンタン君のくせに言うじゃありませんか。いい|覚悟《かくご 》してますね」  刃《やいば》のきらめきよりもなお不気味に静蘭の微笑みが閃《ひらめ》く。  秀麗が巻物をとりに二人を呼びに来るまで、静蘭は蘇芳をいじめていたのだが、結局蘇芳はなんだかんだいって最後まで謝らなかった。 「……モーいやさ、贋作とニセ金つくったやつって、どんな罰《ぱつ》受けんの」 「贋作のほうは、裁き次第《しだし.》ですが、多額の賠償金を払《ぱいしようきん.は云》うのは間違いないですね。ニセ金は当然死罪です。これだけは本当に最悪です。三割に社会の景気が落ち込みますから」 「……ふーん、そっか」蘇芳はそれだけ|呟《つぶや》いた。  巻物を一つずつ確かめ、おおまかな事情を聞いた欧陽侍即《…しろう》は、ただなるほど、とだけ呟いた。 「……さて、うかがいましょうか。わざわざ私《ヽ》に《ヽ》これを見せにきた理由はなんです?」 「あ、その、ちょっと、気になったことがあって……」  秀照は贋作の一つを手に取った。  蘇芳は贋作を並べた卓子《たくL》の周りをプラプラしながら眺《なが》めlている。 「……これなんですけど、私、見た|記憶《き おく》があるんです。多分、真筆を」  秀麗が手にした画《え》を見て、欧陽侍郎はすぐに察した。 「……あなたの代の国試及第《きゅうだも、》を祝う朝廷の酒宴《ちょうていし紬えん》で、特別に引き出されたものですね。私も記憶に残っています」 「そうです。あの……お城であのとき私たちが見たものは、真筆、ですよね?」 「……ええ」  無表情の欧陽侍即に、秀麗はどう|探《さぐ》りを人事ようか迷い、外堀《そとぼり》から埋《う》めることにした。 「確か、あの年の国試及第者のために特別に描《�》かれたもので、あのあとは翰林院《かんりんいん》図画局秘蔵になるので、模本の予定もないって、言って……ましたよね子」蘇芳が、ふと顔を上げた。  欧陽侍即はまったく表情を変えずに淡々《たんたん》と肯定《こうてい》した。 「……そのとおりです」 「それって、おかしくないですか。じゃあ、この贋作を描けるのってー」 「秀寮殿《どの》、言いたいことはわかりました」  欧陽侍即はやれやれと|溜息《ためいき》をついた。 「……まったく、あなたはしょうがない人ですねぇ。とりあえず、ここまでにしておきなさい」 「え」 「一人で調べるのはここまでです。この件の裏に官《ヽ》吏《ヽ》が《ヽ》関《ヽ》わ《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》る《ヽ》か《ヽ》も《ヽ》し《ヽ》れ《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》ということは、御史台《ぎよしだい》が動いてる可能性が高いんです」 「御史台−」官吏の不正を調べ、処分を執行《しっこう》できる独自の権限さえもつ独立監査府《かんさふ》。  秀歴が侍童《1.レどう》として中央府を行き来していたときも、御史台だけは決して入れなかった。 「知らなかったとはいえ、これ以上深入りすると、彼らへの越権行為《えつけんこうい》になりかねません。今の御史台は若手貴族の大官登竜門《とうりゆうもん》みたいなところがありましてね。まあ、……やたら衿侍《きょうじ》の高い官吏が多いんです。睨《にら》まれないにこしたことはありません。特に今の御史台長官は−」いつも冷静な欧陽侍郎が、|珍《めずら》しく眉間《みH∵ん》に敏《しわ》を寄せた。 「……少々、|容赦《ようしゃ》のないかたですからね。上申書の|証拠《しょうこ》そろえには、これで|充分《じゅうぶん》でしょう」  秀麗の目が泳いでいるのを目敏《めぎと》くとらえた欧陽侍即は、まさかと思った。 「……あなた、まだ何か考えてることがあるとかいうんじゃないでしょうね」 「……あ、のt。もしかしたら、この贋作を売ってる人、欧陽侍郎に協力していただければ、うまくすればつかまえられるかも、という策を考えたんですけど」 「考えなくていいんです! それは御史台や紫州府の仕事です! ていうかあなたいま謹慎《きんしん》中なこと、ちゃんとわかってますか!?」 「……ですよわー。でもなるべく早く御用《ごよう》になったほうがいいじゃないですか。餌《えき》をまいて釣《つ》れなかったらそれはそれで。試《ため》してみるだけで。こう、私が考えたとかじやなくて、欧陽侍即かタンタソが考えたことにすればいいですし」 「……はぁ!?俺!?」欧陽侍即は声を上げた『タソタソ』に目を向けた。 「タンタソ! うまくすればここで一発大逆転狙《ねら》えるわよ! お父様のお金も返ってくるし!」  あちこちから贋作を眺めていた蘇芳は、秀麗の|握《にぎ》り拳に唖然《こぶしあぜん》とした。  蘇芳は溜息をついた。 「……あんたさー、お節介《せつかい》だよな」 「う」 「……モーだな。ま、いーよ。俺の名前使っても」  欧陽侍即もこめかみをもんだ。拍子《ひlようし》にジャラジャラと腕輪《うでわ》が鳴る音がする。 「……仕方ないですねぇ。ただし、この贋作、ちょっと預からせてください。気になることがあるので」 「あ、もともとそのつもりできたので、お願いします。うちだと保管にイロイ? 問題が……万一雨とか降られたら雨漏《あまも》りするので……」 「……雨漏り……つてあなた……」静蘭と秀麗不在の間、邵可は−考えてみればまったく当然のことだったがー邸《やしき》の修理など、まったく思いもしなかったようだ。一度は宵大師からもらった金五百両で最低限の補修をした(むろん静蘭が)邸だったが、夏の大風でまたどこか吹《ふ》き飛んだらしい。おかげで二人が帰って初めて雨が降った時、以前と同じように桶《おけ》をもって走り回るハメになった。  静蘭がどこぞから瓦《かわら》をかっぱらってきて、仕事のない日にちょこちょこ修理をしていたが、まだ全面補修にはほど遠い。こんな状態で画なんぞまかり間違っても持ち帰れない。 「あ、それと、この巾着もお願いします」  そうして秀麗は『策』を話したあと、贋作《がんさく》と贋金《にせがね》を置いて、静蘭と蘇芳の三人で欧陽邸をあとにした。  欧陽侍郎は、秀麗が帰ったあと、贋作の筆《て》蹟をよくよく見た。  帆《まなじり》が、徐々《じよじょ》につりあがる。  ……この筆蹟ほ、やはりー。  そのとき、別室の扉が《とげら》音もなくひらき、男が一人、顔をのぞかせた。 「……玉くん、無理を言って申し訳なかったね。休ませてくれてありがとう。ずっとあちこち捜《さが》し回っていたので、さすがに疲《つか》れてしまって……。いると思っていた場所が、ことごとく当てがほずれて……泊明くんも、忙《いそが》しいってきいたから、無理は言えなくて……」欧陽侍郎はサツと礼をとった。それは主家に対する昔ながらの臣下の礼だった。 「いえーとんでもありません。ところでお捜しのあのかたの居場所ですがー」  欧陽侍郎が示すより先に、男のはうが贋作に気づいて飛びついた。 「あ  ー   つつ! こっ、こっ、この! 画の筆《て》蹟は!!」 「……やはり……フ」 「な、なんでこんなモノが出回って−いや、じゃあ、歌梨はどこに!?」  欧陽侍即は息を吸った。御史台は、決して無能ではない。 「……もうすぐ、見つかるとほ、思うのですが……」 「なななんてことだ! せっかく拍明くんが朝廷で頑張《ちょうていがんば》っているのに−あの子に迷惑《めいわく》が‖‥」そのときだった。  もう一人、少年が飛び込んできた。門番の|叫《さけ》び声からするとどうやら振《、h》り切ってきたらしい。                                                                すー  ー 「……迷惑が……なんですって? 義《lL▼》兄《tL’》さん」 「わぁっ! は、泊明くー……あれ、なんか、見ない間に、ずいぶんやつれたね……」 「……ええまあ仕事が忙しくて」  さすがに昨日今日と鬼《おに》のように頑張ったことを|先輩《せんぱい》も認めてくれ、ようやく帰宅を許されたのだ。が、心|優《やさ》しい義兄《あに》に、吏部《りぷ》のことを話して心を痛めさせるようなことはしなかった。  帰宅がかなった拍明だったが、門番から|妙《みょう》な男がきたときいた瞬間、《しゅんかん》欧陽玉の邸に行くことに決めた。自分の邸でなければ、次に可能性が高いのはここだからだ。  泊明は門家筋の欧陽玉に改めて不作法をわびると、こめかみをもんだ。 「……それより義兄さんがここにいるということは……」 「あ、あのね、拍明くん、君に余計な心配はさせたくなくってね。だからね、内緒《ないLよ》にね」 「義兄さん……お心は嬉《うれ》しいんですけど……」  拍明は並べられた贋作を横目で|素早《す ばや》く鑑定《かんてい》した瞬間、lつをわしつかんで叫んだ。  碧拍明は、芸才はともかく鑑定に関しては碧家屈指《くつL》の『日』の持ち主だった。 「−なんですかこれは!?何があったんです!!歌梨姉さんはどこです!?」 「ば、ぼくもいま初めて知ったんだよ      っっっ! ぼくが貴陽にきたのだって、ここ最近だったし、もうふた月くらい歌梨さんを捜すことしかしてなくて、全然書画屋とかにも行ってなくてもう何が何だかぼくにもサッバリ」欧陽玉はおもむろに近くの鉦《かね》をカーンと鳴らした。 「はい、落ち着いてくださいお二人とも」  二人はピタリと口を閉《と》ざした。 「近々、動きはあるはずです。さて、贋作対策と歌梨様捜索《そ.つさく》、どちらを優先させますか」  男は迷わなかった。 「一贋作に決まっている。知ったからには今すぐ手を打つ」  拍明と欧陽玉はちょっと笑った。いつも歌梨に振り回されている義兄だがーいざというときの決断力と、その誇《はこ》り高さは本当に尊敬する。 「私は頼《たの》まれごともありまして、今から朝廷に行かなくてはなりませんが……」  欧陽玉の視線を受けて、泊明は領《うなず》いた。 「わかってます。義兄さんと一緒に、僕も贋作流通を止めるほうに回ります。歌梨姉さんはそのあとで授しましょう。・——1碧一族ですからね」    ll  ■書書▼逆転の横国  邵可邸《てい》に戻《もど》った秀麗は蘇芳を夕飯に誘《さそ》ったが、蘇芳は今度も首を振って断った。 「……あのさt、上申書、書くんだろ?」 「ええ。でされば今日中に書き上げようとは思ってるけれど?」 「あ、そ。……そtだ、やるよこれ。やっぱうちにあったわ」  蘇芳が投げたのを反射的に受け取ると、それは小さな巾着だ《きんちゃく》った。なかには、金の貨幣《かへい》と、なぜか耳飾《みみかぎ》りの銀のタヌキが片方だけ入っている。 「ショーコってやつ。あったらイイモノなんだろ」 「ありがとう。でも銀のタヌキも入ってるわよ〜」 「それ、もってて。あとでとりにくるかも」 「はぁフ」  秀麗がひきとめるまもなく、蘇芳は近くの軒《くるま》をつかまえて行ってしまったのだった。          ・藤・翁・   ーその晩、邵可と静蘭と三人で夕餉《紬うげ》を終えたあと、静蘭は瓦の葺《かわらふ》き替《か》え修理のため、屋根に登っていった。せっかくの公休日も仕事やら秀麗の付き添《そ》いやらで時間がとれず、ついに夜まで静蘭に屋根修理をさせるハメになってしまった。しかし今やらないと大雨の季節になる。 (羽林《うり人》軍の精鋭《せいえい》武官に屋根修理させてるのって……うちくらいよね……ごめんね静蘭……)  トンカソと微《かす》かに聞こえてくる音を聞きながら、秀麗はトホホな気分で食器を洗い終えた。  戻ってくると、邵可はまだ居間にいて、……お茶を掩《....t》れてくれていた。 「……う、あ、ありがと、父様」 「どういたしまして」  トンカソと、音が聞こえる。それを聞きながら、秀麗はここ数日を思い返した。茶州からずっと……考えてきたことがある。ずっと、父に言おうと思っていたことがある。けれど秀麗のー悪い癖《くせ》で、こういった問題《1ヽ111ヽ1》に関してはどうも先送りにしがちで。けれど、三太や、蘇芳の一件で、決めた。避《さ》けられない時期にきているのなら、迷う前に心を決めlて、父に言わなくては。  もう、二度と、後回しにして、後悔することだけはしないと、決めた。  秀麗はぺたんと卓子《た一\し》に頬《はお》を付けてうらぶせた。  その言葉を告げるために、秀麗は息を吸おうとしてー少し、失敗した。 「…父様……」 「うん?」 「あのね、茶州でね、葉医師《ようせんせい》に、ね、聞いたことが……あって、ね……」  とぎれとぎれの言葉になる。ふと、邵可の表情が変わった。  秀麗は、うつぶせたまま、前にある湯呑《ゆの》みを見つめた。戯《たわむ》れに、かつん、と指で弾《はじ》く。  ……そのあとの言葉が、どうしてもつづかなくて。  もう一度勇気を出そうとしたら、湯呑みを弾く指を、父がそっと|握《にぎ》りしめた。 「……わかった。言わなくていいよ。わかったから」  本当に父が察した上でそう言ったことが、わかった。秀麗の|目尻《め じり》から、どうしてか涙が《なみだ》こぼれた。一度こぼれると、次々とこぼれた……泣くつもりなんて、まったくなかったのに。  それでも、不思議に声だけはしっかりしていた。 「あのーね、父様……」 「うん」 「いつかね、静蘭も、この家を出て行くと思うの」 「うん」 「そしたらね、二人きりでも、いい?」  父の指を、しっかりと握りかえす。それでも、小さな震《ふる》えは止まらなかった。 「ずっと、二人きりでも、いいフ」  邵可は、優しく|微笑《ほほえ》んだ。そして、つかまれてる手とは反対の指で、そっと華麗の髪《かみ》を杭《す》く。 「……君がいてくれさえすれば、それだけで私は幸せだよ。他《はか》に、何も望まない」  秀麗の目から、いっそう涙があふれた。優しい言葉に沸《おぼ》れるように目をつむる。 「…………ありがと、父様……。ごめんね……」 「どうして? 謝る必要なんて何もないよ」  頭を撫《な》でてくれる手が、嬉《うわ》しくて。  �決めた、ことがある。茶州からの帰路……帰ってからも、ずっと考えていた。  菓医師の言葉。三太の言葉。蘇芳の言葉。……劉輝の言葉。  秀麗は泣きながら、自らに|誓《ちか》うように、告げる。 「私、誰《だれ》とも結婚《けっこん》はしないわ」  わかってはいたけれど、かつての妻と同じ言葉を告げた娘《むすめ》に、邵可は息を呑《の》んだ。  まるで、昔に戻ったような気が、した。  ……その理由も、邵可には手に取るようによくわかった。  かつての邵可は愛する女性にその言葉を撤回《てつかい》させるのに死ぬほどやっきになったものだが、秀麗に対するその役目は、邸可のものではない。  邵可が秀麗にあげる言葉は、ひとつきり。心からのその言葉を。もう一度、邵可は噴《ささや》いた。 「いいよ。私は君さえいてくれればそれでいい」  どこかホッとしたように、秀居は微笑んだ。そうして目を閉じる。 「ずっと二人きりね、父様。もし静蘭がいなくなってもやってけるように、屋根の修理くらいは覚えてねフ」 「そんなの、簡単だよ一やろうと思えば朝飯前だ。都可は本音でそう言ったが、娘はまったく信じなかった。 「|嘘《うそ》ぽっかり。屋根に登れるかもあやしいのに。……ね、父様」 「なんだい」 「……あんまり早く、私を置いていかないでね?」  呟《つ.ーごや》くような祈《しいの》りの言葉に、邵可はもう一度、秀麗の頭を撫でた。 「それは、私の台詞《せりふ》だよ」          ・器・器・  その晩、秀麗はいつものように文机《ふづくえ》に向かった。  だいぶ夜も更《ふ》けた頃《ころ》、一段落しょうと仰向《あおむ》き�ふと、窓からさしこむいっぱいの月と星明かりに気づいた。窓を開けてみて、秀麗は思いついた。  料紙と文箱を抱《かか》えて、庭先に向かう。−やっぱり、外のほうが明るい。  庭先に引っ張り出した小さな卓子に、料紙と文箱を置く。|椅子《いす》に腰《こし》を下ろす前に、いつものように劉輝のくれた桜の木に向かう。庭院《にわ》に出るたび、もう癖《一〜せ》になってしまった。  秀麗は|蕾《つぼみ》を探し−ハッとした。  近寄り、目の錯覚《さーリかノ、》でないことを確かめる。 「  ——  ……」  梢ま《こずえ》でも、嬉しそうに風に揺《ゆ》れて、音を奏《かな》でた。  秀麗は小さく息を吸った。みっつきりついていた、小さな桜の蕾。ようやく�。 「……咲《き》いた……」 「……あれ、なんで君、庭院にいるわけ」  突如《とつじょ》聞こえた沓音《くつおと》と蘇芳の▼|呑気《のんき 》な声に、秀麗は耳を疑った。 「え!?た、タソタソ!?なんでいるの!?」 「……だってさー、君んち、門番いないじゃん。用があったら勝手に入ってくるしかないだろ。|崩《くず》れた塀《へい》よじのぼってくるの、疲《つか》れたぜ……つか塀修理しろよ。裾《すそ》ギザギザになったぞ」 「……そういう問題じゃないでしょ」 「耳飾り、とりに戻《んご》ってくるかもってちゃんと言ったじゃん」 「夜中に戻ってくるとは|普通《ふ つう》思わないわよ……」  蘇芳は庭院に出した卓子をのぞきこんだ。 「……まだ書いてんの」 「そう。贋作《がんさく》の件だけじゃないし」  秀麗が卓子に着くと、蘇芳はそばの地面にじかに座り込んだ。 「待ってて。もう一脚《きやく》……」 「……いうて。長居するつもり、ないし。仕事してろよ。勝手に話してるし」  何か話があってきたらしい。  秀麗は言葉に甘えて墨《すみ》をすり始めた。がー。 「……やうばさー。どう考えても君、全っ然俺の好みじゃないんだよね」 「……あ、あのねぇ。喧嘩《け人か》売りにきたの、タンタン」 「だから、親父《おやじ》のゆーこと、今回は聞かないことにするわ」  秀麗は墨をすることにした。 「君さt、ほんと頑張《がんぼ》りすぎ。イイ子ちゃんすぎ。鼻につくくらいやんなるってかさ」 「…………」 「夢なんてさー、他人にとっちゃ、迷惑《めいわノ、》でしかないじゃん。だって叶《かキ》わないのを叶えるのが夢だろ7日分のワガママで絶対何か踏《ふ》みつけてるワケだし。あんたを心配してた、あの三太? ってやつとかさ。他にもいるんじゃないの。誰か、そーゆーやつ。そんでも君はさt、上しか見ないってガンバッチるみたいだけど。それってビーなの? 偉《えら》くないよね、全然」秀麗はプルプル震《・川る》えた。よりによって誰とも結婚しない宣言を父様に言った夜に−。 「……も、本っ気で喧嘩売りにきたと考えていーのね?タソタン」 「君んとこの家人が、なんか聞きたいことあるなら直接訊《曳−》けってゆtからさ」  蘇芳は足を投げ出しながら、まんまるの月を物憂《ものう》げに見上げた。 「……なーんでそんなに一人で頑張っちやってるの? 頑張るのって疲れるじゃん。それが報《むく》われなかったら・、なんのために頑張ったのかもわかんないし。あの三太ってヤツの言葉、正しいと思うんだけど。朝廷《ら上でつてい》にいたって、ズソドコドンドコガケツプチばっかでさ、なんだってしがみついてるの。なんでそんなに官吏《・乃一ノlり》やりたがってるわけ」  秀麗はまた墨をすり始めた。はうと|溜息《ためいき》をつく。 「……同じこと、言われたことあるわ。三太に言われるまで、忘れてたけど」 「……ん?」 「国講を受けるって決めたとき。二年前の夏……そこの小さい桜、植えたときなんだけど」  遠い遠い|記憶《き おく》にさえ思える、夏。  絳攸から、告げられたこと。 「同試に受かったって、絶対ログな目に遭《あ》わないけど、それでも受けるかって。受かったあとも、誰も手は差し伸《巾》べない、お前は一人きりだって、何度も言われたわ。何度もしょげたりしたけど、考えてみれば、ちゃんと忠告されてたことが現実になっただけのことだったのよね。……ね、タンタン、忠告された時、その時の私は、それでもいいって思って、受けたのよ」  キラキラと、月光で墨が輝《かがや》いた。まるで、七夕の夜景《よぞら》のlようだと、思った。  一つきりなら、願いを叶えてもらえるかもしれない、特別な夜。  十六歳の夏まで、秀麗が毎年願っていたのは、たった一つの願いごと。 「……手に入らないと思ってたのが手に入ると、紋が出るのよね。昔の自分を、忘れたりするのよ。どんなに|一生《いっしょう》懸命《けんめい》に願っていたか。つらいことぽっかり、見えたり考えちゃったりするし。昔の私が見たら、そこにいるだけで幸せに決まってるのに。忘れちゃうの。それでも官吏になりたいって思ったときの心。だから何度も何度も掛《’r》り返って、確かめるの」 「……何を? 一 「官吏になって良かったって思うこと。僚首には散々に見えるかもしれないけど、探せばたくさんあるのlよ、これでも。ま、落ち込んでるときは忘れがちなんだけどね!…‥」十八歳の今年、自分は、何を願っているのだろう。  蘇芳はこれみょがしな溜息をついた。 「……そーゆーとこ、イイ子ちゃんすぎー」 「前向きって言って。だってやってらんないわよ、そんくらい前向きに考えないと。後ろ向きに考えれば果てしなく底なし|沼《ぬま》にハマるんだから。強がりでも言ってなきゃ本っ気で立ち直れなくなるわよ。タンタソの言う通りありえないズソドコドソドコガケップチだったんだから」 「そんでもさt、官吏がいいって思っちやってるわけね」 「……別に、幸せになりたくないわけじゃないのよ〜ただね、官吏じゃなきゃ、手に入らない、ものがあるの」官吏になって、たった一年。  ガックリきたりしょんぼりくることもたくさんあったけれど。  それ以上に、背筋が震えるほどのー官吏を、見てきた。朝廷でも、茶州でも。  その眼差《まなぎ》しの先を、追いかけて。いつか、並び立てるような、官吏になれたらと。  彼らに、少しでも近づいて、認められたら。  もう一度、誰かがシュウラソと同じ言葉を言ってくれたら。  それはきっと、人生で最高の|瞬間《しゅんかん》になるだろうと、わかってしまっているから。  それは、官吏でなければ叶わない一瞬。 「……ねぇタソタン、頑張るのって、確かに疲《つか》れるわ。ここだけの話、私だって疲れてるときは炊事洗濯《すいじせんたく》に手抜《てぬ》きもするし、『あーもうイヤ!』ってときはふて寝《ね》決めl込むわよ。でもね、起きて少し元気になったら、また頑張ろっかなうて、現金に思っちゃうわけ。なんでかってね、あるのよね。何もかも吹《ふ》っ飛んで、心に直接ドン、つて何かが降ってきて。人生悔《く》いなし! つて心底思えるとき。いつまたそんなときがくるかわからないけど、その二瞬のために、やっぱりもう少し……もう少しだけ、頑張ってみょうかなって、性懲《し」杢うこ》りなく思うのかも」 「……だから手柄《てがら》立てて、出世したいって、思ってるわけ?」 「手柄はわかんないけど、出世はね、できるだけしたいわ」 「……なんで?」 「他の人よりズルしてるぷん、頑張らないでどうするのよ。……それに、あとを、追いかけてきてくれる子が、できたの」いつか、官吏になるから待っててと、告げた声が耳に蘇《よみがえ》る。 「約束、したの。あの子が上がってきたとき、胸を張って会いたいわけよ。でされば偉くなってたいじやないの。『フフ7、私も負けてないわよ』ってえぼりたいワケよ」  締牧が、秀居に示したように。いつか自分も。 「ここにいるから、頑張りなさいって、手を伸ばせたら、最高にカッコいいじやない」    1         ..  /hr.�■   l 「そんだけ。それで充《...11.�? ——.》分《▼》《ノ》じゃないの。どんな答え期待してたのよ」 「もちっと優等生の答えが返ってくるかと思った。……言わせてもらえば、君、多分あんま出世できないと思うけど。出る杭《く》打たれっぱなしみたいな人生じゃないの、きっと」 「ビーしてタソタソほそう悲観的なの。人生何があるかわかんないわよ」 「……君は楽観的すぎ」蘇芳が見上げた菜には、誰かがばらまいたように鼻くずが散らばっていた。  まるで、雨になって、降ってきそうなほど、キラキラしていて。 「……あんたはさ一、きっと自分の正義を信じてるんだろうな」 「信じたいとは思ってるわ」 「善意とか、|優《やさ》しさとか、頑張れば報われるとか、綺醇《11Lれh》なことたくさん、信じちやってるだろ。何があっても、お天道《てんとう》様見て歩こうとかって思ってるだろ」 「口だけでも、理想も綺麗事も、言えなくなるのは悲しいわ。いつかいいことがあるって、一人で勝手に信じるくらいいいじゃないの。うつむくと、それだけでしょんぼりするからなるべく顔を上げようとほ思うわ。強がりでもなんでも、言ったら現実になるかもしれないし」蘇芳はまた|溜息《ためいき》をついた。 「……あーやだやだ。君って全っ然好みじゃないわ」 「ああモーですか。私もタヌキつきで川に流された男に|求婚《きゅうこん》されたの正初め七だったわよ」 「あんたといるときー、ほんっとすっげー疲れそう。精気吸い取られそうっつーか」 「なんっって失礼なこと言うのタンタンは。そういうことは胸にそっとしまっておいてよ」 「……若さt、|怒《おこ》ったじゃん。団子食ってるとき。それまでは得体がしれなかったけど」 「得体がしれ……ね、ねぇ、タソタン絶対口から先に生まれてきたでしょ……」  蘇芳はあぐらをかくと、|膝《ひざ》をつかって頬杖《ほおづえ》をついた。 「あんときさ、……よtやく君が、ふっーに見えたよ」  できすぎのイイ子ちゃんは、ただ強がってるだけだったのだ。  一度立ち止まったら、もう前に進めないギリギリのところを、きっとずっと走ってきたから、止まるのが怖《こわ》くて、突《lrj》っ走っているだけなのかもしれないと、思った。別に、疲れたらあきらめりやいーじゃんとか、蘇芳は思うのだが。きっとこの女は違うのだろう。それは、まだ蘇芳にはわからないことだけれど。 「……偉さ上君の言うことがホントかビーかは、わっかんねーけど。世の中そんなに甘くねーと思うし。俺みたいに、すーぐあきらめたり、『も、いっかなぁ』なーんて思っちゃう人間には、サッパリ理解しがたいし、蒜にいると酌めになるし、疲れるし、お欝だし」 「…………」 「でもさ、君、一度も俺に『なんであんたは頑張らないの』って、言わなかったよな」 「……。……そ、そう?だったかしら?」 「そ。だからさ、そこだけは『ふーん』って思ったわけ。いっぺんでも言われたらさすがの温《おん》厚《こ−つ》な俺様もあらカッチーソてきてたと思うけど。ほっとけよ、つてさ」  蘇芳は音もなく立ち上がった。 「でも、君は言わなかったから。……久々に、外の空気も吸えたし? お礼、してやるよ」 「は? お礼?」 「俺さ、母親に言われたことで、一つだけ|記憶《き おく》に残ってることがあんの。『どんな人生生きてもいいけど、本当に頑張《がんぼ》ってる人の|邪魔《じゃま 》だけはしちゃダメ』みたいなこと。……そんくらいなら、まあ、俺にもできモーだから」了・77・.タソ二グソ、全然話が見えないんだけど」 「一緒にくれは、わかるって。君一人だけ連れ出すと、あのおっかない家人に殴《なぐ》られモーだから、あの男も一緒に連れてこいよ。……できt、道々、聞きたいことがあんだけど」蘇芳は真顔になって、秀芹を振り返った。 「羊の、、、−ちゃんのお葬式《そエノしき》、どうやってとりやめさせたわけ。すげー気になんだけど」 「……静蘭……タン・タンにはイロイ? 話すのね……」          ・翁・嚇・  時は少しさかのぼる。  歌梨を追いかけていた劉輝たちはその晩、ようやくある庭師に辿《たご》り着いた。  晩ご飯時にいきなり見知らぬ珍客が駆《ち人きやくか》け込んできても、香気《のんき》な庭師東紺《ふうふ》は怒らなかった。 「え? ちょっとへソな美人? あーきたきた。ついさっき。なんかな、画《え》をだしてきて 「あなた、この画に《Aり.》描いてある庭院《1二わ》と同じ場所を知っていて!?』って訊《き》いてきてなー」  ここまでは今まで訪ねた庭師と同じ謡だった。  歌梨という女は、誰《だれ》かが描いた画そっくりあ庭院を、なぜか捜《きが》しているらしいのだ。 「あ——あるあるって、答えたら、場所聞いてスッ飛んでったよ。さっき」 「ある!?」 「だっておれが丹精《たんせい》こめて世話してる庭院だ重ん。−そりゃあ知ってるさー」  そうして、庭師は冷めていく魚料理と引き換《★り》えに、親切に場所を教えてくれた。   ーそのあと速攻《そつこう》で庭師が教えてくれた邸《やLさ》の門前に劉輝たちが軒《ノ、るよ》を乗り付けたとき、門|扉《とびら》はピダリと閉じて、どうしてか門番も居なかった。  気配を感じて視線をやれば、少し離《はキ》れたところで一人の女が塀《へし》をよじ登っていた。  ……あまり・にもあやしすぎる光景である。  男ならちょっと頑張れば登れないこともない高さだが、女には高すぎて、のぼっては|途中《とちゅう》で指をすべらせ、べちゃっと落っこちていた。  やがて女は病癖《か人lしやノ、》を起こした。 「何ですのこの塀! あたくしの行く手を阻《はば》もうなんて無礼千万《せんば人》だわ!! 許し難《ポた》くってよ!」声をかけようとした劉輝たちはうらと躊躇《ためら》った。後ろ姿から▼、よもやと思っていたが一。 「……あー……経椴の予言が当たったね……」  やほり、昨日大男の股間《こか九》に跳《しし》び謝《f》りを食《.〜》らわせていたあの女が歌梨だったらしい……。  また懲《ーl一》りずに塀をよじのぼろうとした女だったが、下手な落ち方をして、今度は尻《しり》ではなく頭から転がり落ちた。  寸前で楸瑛が駆けつけて抱《だ》き留めたが、女は目を開けて楸瑛を認めlた瞬間、《しゅんかん》礼を言うどころか 「ぎゃ!」と|叫《さけ》んで逃《に》げるように飛びのいた。  そしていつのまにか背後にいた男たちに気づくと、さらに血相を変えた。 「いやー! なんですーの、むさくるしい男が三人も! 最悪ですわ!! なんてツイてないのかしら! しっしっ。用がなければとっととお行きなさい! 見せ物じゃなくってよ!」しっしっと追い払《はら》われた劉輝たちは何を言われたの示、理解できずに|凍《こお》りついた。人生において、おのおの『むさくるしい』という形容詞を使われたことは未《いま》だかつてない。  しかし女嫌《ぎら》いの絳攸は他《ほか》の二人より立ち直りが早かった。 「なんだこのー女はー!」 「この女ですって!?猿《さる》以下ですわあなた! 男なんてただでさえ頭も口も悪い上に横柄《おうへい》でゴッイしむさいし怒鳴《ごな》るしすぐ汚《きたな》くなるし|拳《こぶし》の語り合いだとかいって殴り合うお|馬鹿《ばか》な生き物かつ潤《うるお》いも何もあり・やしない史上最低の低能動物のくせに、外面《そとづら》さえ取り繕《つ一、ろ》えなくなったらもう終わりですことよ! いいこと、初対面の女性を『この女』呼ばわりする男と連れ添《嘉、》った奥様を『おいお前』なんて呼ぶ男は生きてる価値なしというのがわたくしの持論ですわ!」絳攸は|呆然《ぼうぜん》とした。……あまりにひどいことを言われすぎて、癌の中が真っ白だった。もう何に反応していいかさえわからない。  楸瑛は頬を引きつらせた。 「…こ、胡蝶が言ってた『男にはキビシイ』って……こういうことだったのかな……」 「き、厳しすぎる……」  劉輝は嫌《いや》な動博《ピうき》がする胸を押さえた。しかしここでしょんぼり引き返すわけにはいかない。 「その……おたずねするが、歌梨というのはあなたか?」  瞬間、警戒《けいかい》するように女−歌梨の顔色がサッと変わった。 「……わたくし、いまたいへん取り込んでおりますの。あとになさってちょうだい」  ひとんちの塀をよじのぼっていたのに、歌梨は胸を張って堂々とそんなことを言った。  劉輝は慌《あわ》てた。昨日今口でもよくわからない苦労を相当したのに、ここで逃《のが》したらまたいつ会えるかわからない。 「すぐすむ。碧幽谷の居場所を知りたいだけなのだ。何か知っていたら、教えてほしい」  歌梨からすべての表情がかき消えた。 「……どこのどちらさまでいらして〜」  劉輝は迷った。正式に名前と身分を名乗るべきだろうか−1−もそのとき、カラカラと背後から軒の昔がした。  振り返ると、ちょうど軽い沓音《・〜つおと》とともに軒から誰かが降りてくるところだった。  劉輝は|呆気《あっけ 》にとられた。  秀麗と静蘭もポカソと口を開けた。 「……なんでここに?」  両方|一緒《いっしょ》に|呟《つぶや》いたあと、あとから軒を降りた蘇芳が、門前に並ぶ面々に首をひねった。 「……なんだぁ? こんな大勢で、うちに何か用フ」  その言葉に、歌梨は大きくわなないたあと、蘇芳に突進《とっしん》し、そして。  何一つ言葉にならない気持ちがあふれるように、ポロポロと|大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》をこぼした。          ・巻線像嬢  秀麗と静蘭は思わぬ光景に呆気にとられた。l 「……え、もしかしてタンタンのお母さん……とか?でも若すぎるわよ、ね」 「ビー見ても同じ歳《ト一し》くらいだろ! おふくろは他に男つくってとっくに出てったよ」  サラリと言われた言葉に、秀麗は何と言っていいかわからなかった。  けれど蘇芳はどうして歌梨が泣いているのかわかったらしく、頭をかいた。 「……えーと、歌梨……さん、だっけ?あんたが捜《さが》してるの、うちにいるよ。ィちゃんと案内して返すからさt、泣くなよ」歌梨は泣きなぶら、ただ領《うなず.》いた。  蘇芳は静蘭を振《h.’》り返った。 「なぁ。あんたさ上腕《うで》に自信あるフ」 「まあ、それなりには」 「じゃあ、顔だけじゃないってとこ、おじょーさまに見せてあげられるかもだぜ」  劉輝たちはぞぉっとした。静蘭になんてことを!  けれど静蘭は、なんとなく蘇芳の様子が違《ちが》う気がして、眉根《まゆね》を寄せた。 「タンタン君……?」 「あ、そーいやさt、わかったぜ。ビーして金物屋気にしてたのか。塩はわかんなかったけど。あれさ、ニセ金に使われる銅がどっかに流れてて、だから金物にまわされる鋼が少なくなって、銅鍋《ごうなバ》とかの値段が上がっちやってるってことだろ?でも上がりかたがゆるいし、上がり始めたのがひと月くらい前なら、まだニセ金の流通は少ないはず、つていう。当たり?」これには劉輝たちも息を呑《の》んだ。  さすがに秀寮も蘇芳の様子がおかしいことに気がついた。  ……嫌な、予感がした。少し考えればわかるのに、考えたくなかった。 『……あんたはさt、きっと自分の正義を信じてるんだろうな』  さっき交《か》わした会話が、別の意味を持って跳《は》ね返ってきそうな気がした。 「タソタソ……お礼、つて、なにフ」 「見てのお楽しみ」  蘇芳だけはいかにも気楽な足取りのまま、門の脇《わき》の小さな扉の鍵《とげらかぎ》を開けて中に入った。  蘇芳が案内した先にあるのは、小さな離《はな》れだった。  真夜中だというのに、窓からは灯《あか》りがもれている。 「おわーさんが捜してるのは、あそこにいるよ。庭院《にー》で寝てると、たまーに出てきたから」  駆《か》け出そうとした歌梨を劉輝が抑《おさ》える。 「タソタソ殿《どの》……あそこに突《つ》っ立ってる男は、殴《なぐ》っていいのか?」 「いいよ。今はさ、あそこにいる男しかいないから。あれ転がしたら中に入れさ」  その言葉と同時に、轍域と静蘭が風のーように飛び出し、男が声を上げるまもなく殴って縛《しば》りあげて蹴《け》り飛ばして転がす。あまりの手際《てぎわ》の良さに、蘇芳は口を開けた。 「……なに、いつもこんな押し込み強盗《ごうとう》みたいなコトやってたりすんのアナニモノ?」 「タ、タンタン殿……世の中にはあまり知らなくても良いこともあるのだ」 『押し込み強盗みたい』な二人のうち一人が自分の兄で、一人が自分付きの近衛《このえ》将軍とはどうしても言えない劉輝であった。  その劉輝の腕をふりほどいて、歌梨が駆ける。  その後を追って、離れになだれこんだ秀欝たちが目にしたのは−ー��bうずたかく積まれた画と、何十本もの筆、むせるような墨《すみ》と顔料の|匂《にお》いに囲まれて、描《か》きかけの画《え》の前で絵筆をもつーまだ五、六歳ほどの、幼い男の子だった。  振り返った少年は、歌梨を認め�そして、みるみるうちに涙をいっぱいにためた。 「……母上‖‥」          ・翁鎖巻・  思わぬ人物に誰《だれ》もが絶句するなか、歌梨だけほまっすぐに少年に駆け寄った。         げんl− 「−万里!」 「お、お、遅《おそ》いよ母上ええええ。あれだけわかるようにさんざん措《か》いてたのに、どうしてこんなに迎《むか》えに来るのが遅いの!」 「書画屋なんて、ここ何ヶ月も行ってなくてよ! 拍明の邸《やしき》に行くというから、あたくしも安心してたのに�昨日初めて画《え》を見て|仰天《ぎょうてん》してよ!!」 「母上のばか! どうせ妓樺《ギロウ》で女の子と遊んでたんだ! 僕のことなんて忘れてたんだ!」 「仕事とおっしゃい‖‥こもって集中していたらいつのまにかふた月も経《た》っていたのよ!」 「それを忘れてるってゆーんだぁ! 母上ひどい!」劉輝と楸瑛は、真筆と贋作《がんきく》の入り交じる宴《へや》を見渡《みわた》し、傑然《りつぜん》とした。 「……これ、まさか、あの小さな子が全部描いたのか……?」  ——ものすごい才能だった。  鳥肌《とりはだ》が立った。なまじ造詣《ぞうけし.》が深いため、その神懸《かみが》かり的な才能に震《ふる》えが走る。 「どうしてこんなところに閉じこめられるようなことになったの!?」  万里と呼ばれた少年ほ、えぐえぐとしゃくりあげた。 「拍明叔父上《おじう1え》のお邸まで歩いてたら、好きなだけ、画の勉強させてくれるつて、いわれて。ついてったら、見たことない音の|凄《すご》い画がたくさんあったからー、夢中で模写して描いてたの。だって、いくら頑張《がんば》っても母上にぜんぜん追いつけないんだもん。母上、女の子が好きで、僕、男だから、画がうまくならないと、ダメだもん。父上みたいにいつか置いてかれちゃうもん」歌梨はぎょっとした。 「なっ、なにを言うの! 別に置いてったわけじゃなくってよ。あの唐変木《とうへんぼく》がわたくLを追いかけるのが毎度毎度遅すぎるのが悪いの! わたくLに対する愛が足りないのよ!」 「父上、母上たくさん愛してるもん。それでも母上は置いていくでしょ。僕、大きくなって母上に嫌《キ二り》われる前に、画、頑張りたかったの。……ううん、ほんとは違う」万里は、描きかけの画を手に取った。吸い込まれるように、幼い顔が画師に|変貌《へんぼう》する。 「……母上みたいに、画を、描きたかったんだ。母上のような画をょ1ううん、僕は、僕だけの、僕しか描けない、画を、描きたいって、思ったんだ。でも、まだすごいへたくそだし、母上はなんにも教えてくれないし、だから−1−⊥ここに、ついてきちゃったんだ。でも……」しょんぼりと万里は肩《かた》を落とした。 「……僕、模写のつもりで描いてたのに……それ、本物だって売ってるの、知って……でも、描かないと何されるかわかんなかったから、|途中《とちゅう》から、ちょっとずつ、僕の筆《て》蹟をいれてって、母上とか父上とか拍明叔父上とか、気づいてくれるといいなって、思って頑張ったり、この家の廃院を僕の筆《一・、》蹟で描いて売ってもらったりとかもしたのに、なんか、高く売れなかったとかで、結局三、四枚くらいで終あっちやって……待てど暮らせど誰もこないし……」  劉輝たちはハッとした。  歌梨が片っ端《ぱし》から贋作を当たっていたのは、|息子《むすこ 》が描いた画に、何か手がかりがないか探していたからだったのだ。そうして、きっと昨日、どこかで見つけたのだ。おそらーく、この庭院を描いたという息子の『真筆』をー。 「……だから、『植木屋と庭師の店』だったのか……」  絳攸は額を押さえた。息子の真筆こそが最大の手がかりだと踏《・小》んだ歌梨は、画そっくりの庭院のある邸を探して、怒涛《ごとう》のように植木屋と庭師に突撃《とつげき》をかけ−見事に一日でつきとめた。  手がかりを探して貴陽を駆《か》けずり回り、夜中になって鴇あきらめ才に塀《へい》をよじのぼって息子を助けようとした。ポロポロと涙をこぼしたあのときの表情《力お》�。  どうにもこうにもいろいろ難アリの女性のようだが、息子と(置いてきぼりにしたという)  父親を心から愛して心配しているのは、間違いなかった。 「……主上、この会話からすると�」 「ああ……間違いない。まさかと思ったが、幽谷は——」  そのとき、何気なく周りを見ていた秀麗は、あるものを見つけて息を呑《の》んだ。 「……劉輝……これ……」  差し出されたものを見て、劉輝は顔色を変えた。それは貨幣鋳造《ち博うぞう》の際、最後に押して正規の貨幣であることを示す、紫紋《Lもん》の極印《ごくいん》。略印ではあるが、充分精緻《せいち》な意匠《いしょう》のため、偽造貨幣は、主にこの意匠で判断する。−その極印は、素人ならまず見抜けないほどの出来だった。  その極印を見た歌梨は、察して|蒼白《そうはく》になった。 「……万里、まさか、あなた、あの極印、彫《圭》った、の……?」  事態がよくわかっていない万里は、不穏《ふおん》な空気を感じっつも、正直に領《うなず》いた。 「え、う、うん……気分転換《てんかん》に、たまには、彫り物も、したらって、言われたから。母上、彫り物も上手だし、僕もちょっと、やってみてもいいかな、つて、思って……。ためしに、この模様、彫ってみたらって……だから、何枚か……一番いいの料どこかにもってかれて……」絳攸は坤《うめ》いた。贋作づくりはともかくー。  こればかりは、いくら子供で、何もわかってないといえど、言い逃《のが》れは、きかない。 「……なんて、ことだ……!」   ー贋金鋳造に関《に甘がねちやりぞうかか》わった者は、誰であろうと、すべからく死罪。  |凍《こお》りついた空気を破ったのは、歌梨の一静かな声だった。 「……贋作づくりも、この偽造極印をつくったのも、碧《ヽ》幽《ヽ》谷《ヽ》で《ヽ》す《ヽ》わ《ヽ》」  歌梨は迷わず、劉輝を見た。 「全部、碧幽谷が、したことです、主《ヽ》上《ヽ》。なにとぞそのようにお取り計らいくださいませ」 「え、母上、幽谷って、僕じゃなくて母上の雅号《ガゴウ》……」 「……万里、よくって? あたくし、これからあなたを置いて長い旅に出ることにしたわ。ひとまず痢明の邸に預けるから、父様が迎《むか》えに来たら、それからは父様と|一緒《いっしょ》にいなさい」  つん、と冷たくそっぽを向いた母親に、万里の幼い顔がくしゃくしゃに歪《ゆが》んだ。 「な、なんでぇ……? 僕が、わるい人にさらわれちゃったから、|怒《おこ》ったの? ごめんなさい、ごめんなさい。置いてかないで。もうしないから。なんでもするから、一緒にいさせて母上」幼い泣き声に、劉輝はぐらりと頭の奥が揺《ゆ》れた。  置いて、いかないで�……。  遥《はる》かな彼方《かなた》から、声がする。  目の前がチカチカ点滅《てんめつ》する。脂汗が《あぶらあせ》流れ落ちる。  そのとき、誰かが手を|握《にぎ》ってくれた。両手それぞれに、一人ずつ。  急速に、視界がひらける。呼吸が楽になる。  一度、それぞれの手を握りかえしてから、劉輝は自ら手を離《はな》した。……深呼吸をする。  丁‥‥・|大丈夫《だいじょうぶ》だ、離れ離れになることはない」  歌梨がギクリと万里を背にかばった。まさか、二人もろとも−。  劉輝は、偽造極印を手に取った。 「……これは《11ヽ》、試作品だったのだ《ヽ1111ヽ1ヽ》。そうたな、幽谷殿《どの》フ」 「……え?」 「余はそろそろ、|偽造《ぎ ぞう》のしにくい新意匠の極印をつくりたいと思って、天下に名高い碧幽谷を捜していた。碧幽谷はもっぱら画に注目が集まりがちだが、彫り物の才も画にひげをとらぬ腕《うで》前《まえ》と知る者は少ない。余は碧幽谷に、貨幣の新意匠《しんいしょう》の依頼《いらい》をし、そなたはそれを受けて、制作を開始した。これはその試作品の一つだった。そうだな、碧幽谷殿フ」幽谷�歌梨の目が、|驚《おどろ》いたように膣《みほ》られた。 「……あなた……」 「……そなたを捜し回っていたのは、本当にその▼ためだったのだ。贋金が大々的に製造される前に、新貨幣切り替《か》えの公布をしたかった。ゆえに鋼の動きを逐一《ちくいち》全商連で調べてもらい、相手が大量生産に移る前に贋金もなるべく内々に回収してもらえるように頼《ため》んでいた。まだ猶予《ルうよ》があるうちは、こっそり事を運ぼうと思っていたのだが……そなたに彫り物の依頼をすれば、勘《かん》のいい者が気づく恐《おそ》れがあった。だから、表向きは|肖像画《しょうぞうが》の依頼ということにして、実は新貨幣極印依頼をしようと思って、捜していたのだ。少々順番が狂《くる》ったが−どうだろうかエ         あかくらげる   た人そく歌梨は紅い唇で、嘆息した。 「……引き受けざるをえないわね……いいえ、素両《すなお》にお礼を言うわ。ありがとう」 「母上え……置いてかないで……僕、母上とずっと一緒にいたい」  えぐえぐ泣きじゃくる息子を、歌梨は|優《やさ》しく慰《なぐき》めるどころか、じうと観察を始めた。 「……|面白《おもしろ》い顔だわ。あとで描《か》いてあげてよ。子供って、見ていて飽《あ》きないから不思議ね」  万里は絶句すると、泣くのをやめて怒り出した。 「ひどいよ母上! いつだって僕より仕事が大事なんだ! 僕までネタにするんだ!」 「ホーホホホ、わたくLにとって画を描くことは生きることそのものだもの。当然だわ!」  ひどい、とその場の誰もが心の中で思った。 「……でも、息子さん、泣きやんだわ」  秀麗の撃に、劉輝はハッとした。……確かにそうだ。ぷんぷん怒っている少年を見れば、もうさっき母親に置いてかれそうになったことも忘れているだろう。 「万里、これからしばらく一緒にお仕事するわよ。よくって?」 「え、母上と一緒に?」 「ええ。でも、|容赦《ようしゃ》しなくってよ。他《はか》の彫り師や画師のほうが上手だったら、あなたのは当然使用なんてしなくってよ。ポイよ、ポイ」この吉葉には、万里は怒らなかった。 「−いいよ。望むところだよ。母上とお仕事するのは僕だよ。じつりょくで|頑張《がんば 》るもん」  ぐっと顔を上げた万里に、緯枚は感嘆《かんたん》した。 「……驚いたな、あの年で、もう一人前の自覚ができてるぞ……」  歌梨は懐《ふところ》から、一枚の画を取り出した。それは、万里が描いた這ハ筆』。 「万里、あなたはこれから、もうひとつの名前をもちなさい。その資格をもったわ」  その意味を知った万里は、|歓声《かんせい》を上げた。 「雅号、くれるの母上!?」 「わたくLが谷だから、あなたは山でいいわね。碧幽山《ゆうぎん》にしましょう」 「……母上……本当になんも考えないでつけたでしょ……」 「雅号なんてどうでもよくってよ。それとも川のほうがよくって?」 「ううん、僕、他にずっと考えてた雅号があるんだ。それがいい」  万里がその雅号を言おうとしたときだった。 「−な、なんだ、この|騒《さわ》ぎはー!?」  くるんと丸まった短い髭《ひげ》の男が、豪華《ごうカ》な綿入れを羽織りながら飛んできた。          ・器・巻・ 「あー、親父《おやじ》」  それまでただ事態を眺《なが》めていた蘇芳が、|呑気《のんき 》な声でそう言った。 「す、す、蘇芳! なんだこれは!」  |叫《さけ》ぶ男を見た瞬間、《しゅんかん》劉輝と縫紋はすべてを理解した。二人は、彼を知っていた。 「親父のささやかな金儲《かねもう》けが、バレちゃったってこと。出入りしてた画商も、|今頃《いまごろ》工部侍即《じろう》等んの邸《やしさ》でとっつかまってると思うよ。俺が夕方帰ったとき、この子供が描き上げたばかりの贋《がん》作《き.ヽ》借りて、『なんか工部侍部がこの画ほしがってるらしい』って言ったら、亭び勇んで贋作もっていったから。まだ帰ってないってことは、捕《つか》まってると思うんだよねー」秀欝は愕然《がくぜん》とした。それと似たようなことを、秀麗はさっき欧陽侍郎に頼んだ。けれど、秀麗が提案したのはもっと不確かな−『翰林院《かんりんいん》図画局所蔵の画と目録を照合して、もし紛失画《ふ∵んしっが》があったら、それが次の贋作として出てくる可能性が高い。欧陽侍郎がそれを欲しいという|噂《うわさ》を流したら、画商がカモネギでくるかもしれない。そしたらとっつかまえてください』という、ある意味賭《か》けに近いものだった。けれど、蘇芳はそれをより確実にした。  秀麗は、自分が何を言ったのかに気づいて、全身に冷や水を浴びたような心地《ここち》がした。  欧陽侍即に、秀麗があの提案をしたとき、蘇芳はどう思って聞いていたのだろう。 『タンタン! うまくすればここで一発大逆転狙《ねらー》えるわよ! お父様のお金も戻《もど》ってくるし!』『……モーだな。ま、いーよ。俺の名前使っても』秀麗のあの言葉を、彼はどう思い、どんな気持ちで、答えたのだろう。               ヽ   ヽ   ヽ  ヽ      ヽ   ヽ  ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  ヽ   ヽ      ヽ  ヽ  ヽ  �彼の父を、犯罪者としてつかまえる、提案を。  ガタガクと、|膝《ひざ》が震《ふる》えた。 「タ、タンタン……」 「ん? ああ、気づいたのほ贋作ちゃんと見たとき。親父、俺に似ててヌケだからさー、あの真筆、得意げに邸に飾《かぎ》ってたわけ。君、言ったじゃん。贋作の真筆もってるのが、いちばんあやしいってさ。あーあって思ったわけ」 「タンタン!」 「ちなみに、親父って、こないだまで翰林院図画局にいたんだよね。クビになったのも、長官が退官した後、秘蔵の画を紛失したからってことだったんだけどさ上今から思えば、家に持って帰って贋作描かせてたんだよなー、きっと。買い取ったのでコソコソやってれば、見つからなかったのに、欲かいちゃうからこーなるんだよなー。まあ、日がな一日邸でゴロゴロしてたのに全っっ無気づかなかった俺も俺だけどさ」                                                       hrー fr、  秀居の耳に、蘇芳の声が響《f′一’rl》く。 『……あんたはさ�きっと自分の正義を信じてるんだろうな』  どんな思いで、彼は。 「蘇芳! お、お、おまえー」 「これが礼だよ、紅秀蝉。願いどおり、これでもう贋作は出回らなくなるぜ。上申書のかわりに、この件の詳組《Lよ∴さい》書いて朝廷《ち⊥うてい》に出せば、箆憤《さ一�しtれ》処分もちょっとは早くとけるかもだぜ」 「1−1タンタ.ン!」 「……でもなー、ニセ金のー件は親父、マジで知らなかったと思うんだよな……親父、肝《竜−ち》が小さいから、そこまではやれないと思うんだけどな一……贋作でコソコソ稼《かせ》ぐならまだしも、見つかったら死罪なんだろ?ちょっとなー……」秀麗はあえいだ。−死罪。 「に、に、ニセ金!?なんだそれは!?私はそんなの知らないぞ!」  まだ何が起こっているか理解しきれてない棟淵西《しんえんきい》も、死罪とニセ金という車語はかろうじて耳にひっかかったらしい。猛然《もうぜん》と首を振《ふ》るその様子は、確かに本当に知らないように見える。  けれど、実際に邸内《ていない》で偽造極印が見つかった以上、すべては言い訳としか判断されない。  同じ邸にいた、彼の|息子《むすこ 》である蘇芳も、知らないではすまされない。 「あ、それとさ、確か御史台《ぎよしだレ》の官吏《かんり》なら、その場でとっつかまえられるんだよな?」  蘇芳は秀麗を見たが、真っ青なまま何も言えないでいるのを見て、静蘭に首を巡《こうぺめぐ》らした。 「……だよな? 物知りでおっかない家人さん」 「……そう、ですが……」 「俺の|記憶《き おく》が確かなら、今の俺の所属って、醇か御史台だったと思うんだけど、役に立つ?」秀麗は今度こそ、何も考えられなくなった。  秀麗が蘇芳をむりやり引っ張り回して、付き合わせた結果が、これだ。 「ちょ…つと、待ってよ……なに……私…………」  秀麗は思わず劉輝や緑牧を振り返りー激しい自己|嫌悪《けんお 》に陥《おL∵い》った。  この邸で贋作がつくられていたことも、偽造極印があったことも、紛《まぎ》れもない事実だ。  万里の件はともかく、これは、完全な犯罪だ。  なんとかできるかなんて、口が裂《ヽ1》けても言えるわけがない。 「紅秀麗、あんたさー、自分の正義を信じたいって、言ったよな?」  秀麗は買えた。 「俺はさ、モーゆーこと、もう考えなくなって、結構経《た》つんだ。むかーし音はさ、あんたはどじゃなくても、ちょっぴりは、考えたこともあったかな。中書省って、あるじゃん?王様の秘書やるとこ。親父に初めて買ってもらった官位がそこでさ。超《ちょう》下っ端《げ》だけど」劉輝は、ふっと顔を上げた。 「王様の秘書が仕事なのに、次の王様になりそうな、それぞれの公子にへつらうのが仕事みたいなもんだったな。そのころの俺は、俺なりに、頑張《がんぼ》っちやってたんだけど、ちょっと何か言えば、不思議なことにそのたびにどんどん官位が下がってくわけよ。俺ってさt、昔から、あんまり考えない性格でさ。おっかLtな�仕事ちゃんとしてるのになー�なんでだろ? なーんてマジで首傾《かし》げてる間に、あれっと思ったときにほ、貴陽からも追い出されてた。地方左《き》達《せん》てやつね。そのおかげで、最悪な時に巻き込まれなくてすんだってのも、あるんだけどさ」劉輝はぎゅっと拳を握《こぶしにぎ》りしめた。その『公子たち』のなかに、彼も入っていたのだ。  蘇芳は、震えている父を、少し哀《あわ》れみの目で見つめた。 「親父はさ、親父なりに、俺のこと心配してくれてさ。金ばらまいて、なんとか貴陽に戻《もりし》れるように段取り整えて、官位もまた買ってくれたわけ。そのころの俺は、もう今の俺。出仕する気にもなんなくて。ゴロゴロしてたら・、またこれが何ごともなく時が過ぎるわけだよ。誰《だ血》も何も言ってこないし、何ごともなく朝廷も毎日も働いてさ。あーららら、俺ってば、ほんと別にこの世に必要ない人間だったんだなうて、再認識《さいに人しき》Lちゃったわけ。でも、まーいっかってさ。もうなんか考えることも頑張ることも疲《つか》れてた。流されて生きるわ掩って思ったわけよ」  蘇芳は小刻みに震えている秀麗を、チラッと見た。 「あんたに言ったこと、全部本音だし、別にあんたのなんかが俺を変えたわけでもないよ? 二日でなんも変わらないって。でもさ——、|途中《とちゅう》でちょっと樽《かけ》をしたんだよね」 「……か、賭〜」 「そ。イイ子ちゃんでなんか頑張っもやってる君なら、なにも頑張ってない俺に、『なんで頑張らないの』って言うと思ったんだよね、絶対。でもなかなか言わない。そのうち『アレ、もしかしてうちの親父かよ子hって思ったときさ、もし最後まで言わなかったら、教えてやろうかな、つて勝手に鰭をしたわけ。で、マジで言わないままだったから。それだけ」 「そ、それだけ、つて」 「それだけだよ。別に君が、何か変えたわけじゃないよ。ビーせ俺も親父も、利用されて|一緒《いっしょ》くたに切り捨てられる結果は同じだったと思うし。あんたに|求婚《きゅうこん》しろってどっかのエライ人から言われたってとき、親父ほ素直《すなお》に金と爵位《しやくい》〜! つて喜んでたけどさt、俺は『あーなんかヤバそう』って思ったもん。だから、適当に取り繕《つーくろ》って帰ろーと思ったわけ」まったく頭が回らない秀麗以外の.全員が、すぐに気づいた。 「八家とか、名実ともにユルギナイ大官とかならともかくさ。反感買ってる君と下手に結婚したら、|普通《ふ つう》の貴族には負要素だろ。うまく退官に追いこむために偽装《ぎそう》結婚しろっていわれて、結婚しても、君が退官しなかったら〜金と爵位どころか、君ともども切り捨てられるのは目に見えてるだろ。どっかのエライ人は、切り捨てても支障はない一家として、わざわざ俺を選んだわけだ。まー出仕してないから、ツテもないし、絶好の存在だよな……」やれやれと、蘇芳は首を振った。 「そんで、贋作と、ニセ金だろ。もう出来すぎ。贋作にしてもき、親父、すtや乗せられやすいから、誰かの口車に乗って隠《かく》れ蓑《みの》に利用されたって考えるほうがしっくりくるんだよな。なんつtか、その『どっかのエライ人』はホント徹底《てってい》的にうちを利用するだけ利用して金集めてポイだぜって熱意ビシバシ感じられて、ここまできたらもう負けたよ、つてカソジ?」 「……そ、こまでわかってて、どうしてうちにきたのよ!」 「わかってないっつーの。『ヤバそう』ってただの勘《かん》だもん。俺そんなに頭よくわーの。行かなけりゃ行かないで、結局役立たずの烙印《らノ、い人》押されて切り捨てられるんだろーなってボンヤリ思ったし。あとはやっぱ、母親のあの言葉があったからかなー……」最後のひと言は、小さすぎて秀麗の耳には届かなかった。 「だから、これは俺が勝手に幕を引いただけ。ビーせ遅《ん・.1・》かれ早かれだったろ?」  終値と劉輝が目を見交《みか》わす。  1……どう思う、緯枚。1なんとかなると思うかフL二 「そうだな……。彼が御史台にまだ連絡《八・へ∴・‥》してないのなら、主上の権限で独自確保して、本当の背後関係を明らかに出来れば、罪が軽くなる可能性はー」その会話を小耳にはきんだ秀麗は、希望をこめて微《小ナ》かに顔を上げた。 「……んーと、それ、多分、無駄《むだ》だと思うよ?だってさ!」  他《はか》ならぬ蘇芳がそう|呟《つぶや》いたとき。  いきなり塀《へい》の外に何台もの軒が《ノ、る圭》乗り付ける音がしたかと思うと、門から大勢の武吏がなだれ込んできた。  半数が邸内に突入《とlリにゅう》し、半数はまっすぐ劉輝たちに気づいて駆《力》けてくる。  劉輝の姿を見て、|驚《おどろ》いたように礼をとる。 「−何ごとだこれは!」 「ほっ、御史台より命がくだり、捕縛権《はぼlくけん》が発動されました。贋作《がんさノ、》製造及《およ》び贋金鋳造《ちゅうぞう》の罪により、榛淵西及び榛蘇芳の身柄《みがら》をすみやかに拘束《こうそく》せよとのことです」絆牧が厳しい目で蘇芳を顧《かえり》みた。 「お前が連絡を取ったのか!?」 「……違《ちが》うって。あのなー、俺、今日まで贋作の件もニセ金の件も知らなかったって言ったじゃん。この件を調べてたっていう監察《かんさつ》御史が俺なわけないだろ。だいたい日がな一日ゴロゴロして出仕してないのに、こんな大仕事くるかよ」蘇芳に言われてようやくそのことに気づく。どうやら全員知らずに動揺《どうよう》していたらしい。 「失礼します。−命により、賠償金《ぼいしようきん》の一部として、押収《おうしゅう》させていただきます」  武官は手を伸《の》ばすと、蘇芳の耳・腕《うで》・指から銀のタヌキを抜《ぬ》き取り、さらに胸元《むなもと》をひらいて白金の首飾《一ヽげかぎ》りまで迷わず|探《さぐ》り当てた。これには蘇芳も目を点砿した。 「? なんで知って�あ! もしかして、あのあやしい露天商《ろてんしょう》が監察御史だったのかよ!?」静蘭は舌を巻いた。−そうか! 「押収で賠償に当てられる財産が直前までなるべく減らないように、タソタン君にわざと高額の宝飾《ほうしよく》類を売りつけて、現金を宝飾にかえて身につけさせたわけか……!」蘇芳はかなり無造作にくっつけていたが、金のタヌキ置物を含《ふく》めて、どれも純度の高い、相当高価な品だ。邸を《やしき》始め、売りにくさを考慮《こうりよ》してさまざま価値が差し引かれることを考えれば、あのタヌキ軍団だけで|没収《ぼっしゅう》家産の三割には当たるかもしれない。  ——あまりにも、用意周到《しゅうとう》すぎる。担当した官吏は相当な能吏だ。 「欧陽侍郎《�し一ろよノ》の邸にて、画商及び贋作、また、王商家が代金としてつかまされていた贋金もすべて確保いたしました。碧家のご協力により、近日中に残りの贋作はすべて回収される予定です。また『真筆』の代金として贋金をつかまされたと見られる顧客《こきやく》には既《すで》にあたり、現在までに九割が回収済となっております。贋金を鋳造していた場所も紫州府に通達、すでに人員ともども身柄を確保してあります。ただ、実際に使われていた偽造極印は、まだ発見されておりません」秀麗の目がクッと見開かれた。……なに? 「また、碧歌梨さま及び碧万里さまは被害者《!?lがいLや》として手厚く保護せよとの命にございます」……どうして……? 「……どうして、そんなことまで、知ってるの……? L碧歌梨や碧万里がここにいることは勿論《もちろん》、名前でさえ、秀席たちはさっき知ったのに。何もかも、すべてを監視下に置いて随時《ずいじ》見張り、とっくに見通していたかのように。劉輝や絳攸も、さすがに顔色をなくした。……聞いてはいたが……。  まるで折り紙でもするかのように、すべてを簡単に折りたたみ、一気に整然と片付けていくこの手際《てぎわ》の良さ。情報収集能力。事後処理を見こした上での|完璧《かんぺき》な事前対処法�1−� 「まさか、これほどとは思わなかった……」 「……これが、今の御史台《ぎよLだい》か」  長官をのぞいて、他はほとんど謎《なぞ》に包まれている監査機関!。  秀麗のことを逐一《らくいち》見張り、彼女が|証拠《しょうこ》をそろえて上申書をしたためて奏上するだろう直前を見極《みきわ》めて、すべての手柄《てがら》を横からかっさらった。秀麗が首を突《つ》っ込んで|煙《けむり》たく思うどころか、それさえも捜査《そうさ》に利用したとしか思えない。彼らが欧陽邸《てい》で押収した、羅干親分のもとで保管されていた贋作などは、いかな監察御史とて、あきらめざるをえない類《た�い》の証拠品だ。 「さあこい」  呆《ほう》けている榛淵西をひったたせたあと、蘇芳にも縄《なわ》がかけられる。 「−ま、待って! 罪の、重さはー」  武官はどう⊥て無関係の女性がここにいるのか不審《ふしん》そうだったが、丁寧《ていねい》に答えた。 「贋金鋳造に関《カ末り》わった者は、死罪と決まっておりますので……」  きっぱりとした宣言に、秀麗は言葉を失った。  ……彼は、本当に、何も知らなかったと、思う。  贋作のことも、贋金のことも。彼は何も関与《かんよ》していない。なのに。  どこかにいる『誰か』に全部押しっけられて切り捨てられようとしてる。  おかしいはずなのに、誰もおかしいとほいわない。  �すべての価値が、逆転する場所。 「……な、言ったろ、紅秀麗。世の中さ、そんなに甘くねうて」  蘇芳の口調は、この期《ご》に及んでもかわらなかった。 「君はさ、自分の正義を信じてればいい。でも、あんまり甘いと、たまにこーゆー事態に遭遇《そうぐう》するってことくらい、覚えておけば、あとでなんかの役に立つかもよ?」それが椰緬《やゆ》だったのか、素菌な忠告だったのか、秀麗にはわからなかった。 『ショーコってやつ。あればイイモノなんだろ』  秀麗にわかることは、自己満足で付き合わせた結果、彼を、父親を逮捕《たいは》するためのあらゆる|証拠《しょうこ》そろえに引きずりまわし、蘇芳は気付かないでいたはずのことに気付き、そして彼の手で、父親と彼自身の幕を引かせるきっかけになったということだ。  秀麗が出世したいといい、せっせとしたためた上申書は、彼の父親を踏《.い》み台にしたものだったのだ。秀麗が何もしなくても、この結果は同じだったかもしれない。けれど。  秀麗が何も知らずにしゃべったすべての言葉を、彼は、どんな思いで聞いていたのだろう。 「罪は罪−、君ならきっと、モーゆーんだろな、紆秀麗。でも今の君、なんかふっーに見える」  蘇芳は笑った。違和《いオJ》感を覚えて、秀腱はぼんやりと気づく。これが彼の笑顔《えがお》を見た最初なのだと気づくのに、秀麗はしばらくかかった。 「じゃーな」  そうして、彼は武官に囲まれて去っていった。  秀寵は|呆然《ぼうぜん》とその場堅止もつくした。  弼…�幽劉輝は難しい顔で、柴凛の報告を受けていた。そばには悠舜と、絳攸と楸瑛がいる。  もともと贋金《にせがね》と碧幽谷来訪の情報は柴凄から受けたものだった。悠舜たちが、幽谷に打診《だしん》して鋳造しにくい新貨幣《しんかへい》の依頼《いらい》をしようと決めたあとは、柴凛から全商連に通達して、判明してもなるべく大事には|騒《さわ》がないようにとも頼《たの》んでもらったりもした。 「……やはり……凛殿《どの》のところにもあの晩、監察御史《かんさつぎよし》がきたのか」 「ええ。秀麗殿に頼まれて、作成していた書翰《しよかん》を全部もっていきました。秀麗殿の考えたことで使えそうなものは全部横取りする気で先手を打ってきたという感じです」秀勝が柴凛に頼んだのは、贋作に使用された料紙・顔料・墨《すみ》・筆など、|近頃《ちかごろ》やたら買い甘《ノ》めているような顧客の情報があったら、教えてほしいというものだった。もともと秀麗が問屋を回っていたのは、そういった情報をつかむためだった。  あれだけの贋作を短期間に描《か》くなら、それらの消費量は半端《はんば》ではない。描かれた贋作の中には、|滅多《めった 》に手に入らない高価な顔料を使ったものも含《ふく》まれている。秀麗は、『画商』を探すのではなく、『贋作hのほうから手がかりをつかもうとしたのだ。なんの権限ももたない秀麗ができることは、ツテを使ってそんなふうに外堀《そとぼり》を埋《う》めていくことだけだ。限られたなかで、彼女は最大限に頭と足を使って、使える情報を集めた。  けれど、そのすべてを、御史台は問答無用で残らずかっさらっていった。 「多分、御史台のほうもそんなことはとっくにやってたと思うんですが……まさしく水も漏《一U》らきぬ勢いで家捜《中さが》ししていきましたよ」 「わかった。ありがとう」柴凛は領《うなず》いて、悠舜と少しだけ目を見交《みか》わし、退室した。 「……金が消えたな……」  絳攸が険しい顔のまま、|呟《つぶや》いた。  ——贋作・贋金で『誰《だ11》か』が大量にかきあつめていたはずの大金は、どこかに消えてなくなっていたのだ。榛親子の邸には勿論《もちろ人》、その件に関しては彼らはまったく知らず、欧陽侍即の邸でつかまえた画商も、尋問《じんもん》直前に『急死�口を割らせることはできなくなった。  また、実際に鋳造に使われていた一番出来のいい偽造極印も、見つからなかった。背後で榛親子を徹底《てってい》的に利用していた『誰か』は、画商の口封《くらふう》じをして、大金とともに闇《やみ》にひそんだ。 「まあいい。わからないことを考えても仕方ない。出てくるときにはまた出てくるだろう。とりあえず碧泊明がずっと待っているのだろう? 入れてあげてくれ」          ・器・巻・  T……あ!…‥何日たったのかなー)  蘇芳は真っ暗な牢屋《ろうや》で寝《ね》て起きてを繰《J、》り返し、ぼんやりとそう思った。 (……俺、なーんか|珍《めずら》しいことしちゃったなー……なんでだろ?)  いまだに、よくわからない。とりあえずタンタンタヌキ軍団お守りの効果はなかった。  T……いーや。寝よ寝よ……)  また図太く寝ようとした蘇芳は、けたたましい足音にちょっと目を開けた。 「……なんだぁ?」あか           こうし      、暗い牢に、サッと灯りがさしこむ。それを手にした誰かが、格子をつかむのが見えた。 「タンクソ!!死んでない!?」  顔は見えなかったが、その声と呼び名に、蘇芳は唖然《あぜん》とした。 「……な、何してんだあんたー!」  そうしているうちに|鍵《かぎ》が外されたかと思うと、最初に静蘭が入ってきた。 「……もしかして牢破《ろうやぶ》り?」 「んなわけないでしょう。正々堂々と手続きを踏み倒《たお》しー踏んできたんですよ。お嬢様が《じょうきま》、とりあえず君の無罪を立証しょうと|奔走《ほんそう》しまして。父君はともかく、君のほうは状況証拠《じょうきようしようこ》しかなかったですからね。ごり押しが適って、釈放《しやくはう》ですよ。よかったですねタンタソ君」静蘭は笑みを閃《ひらめ》かせた。 「お嬢様を甘く見ないでください。呆然としてたのは一刻くらいでしょうかね。贋作《がんさく》同様、速《そつ》攻《こう》で走り回りはじめましたから、早かったでしょう? ツテ総動員しましたから。お嬢様に求《きゅう》婚《こん》したのは、君の最大の幸運でしたね。お嬢様と会わなかったら、|間違《ま ちが》いなく死罪でしたよ」 「タソタソ〜、ノ・ll−! あんたねぇぇえ!!」 「いででで!!」秀歴は突進《とっしん》すると、伸《の》びた|無精髭《ぶしょうひげ》をひっぱった。 「ふざけんじゃないわよあんた! 何もしてないくせになんだってひと言も弁解しないのよこのバカ! タヌキ! タンタン‖‥『やってませんhくらい言いなさいよ! やる気ないのもほどがあるっての一よ! おかげで釈放に時間かかったじゃないの!!」 「いてー! 無罪ってなぁ……」 「だってほんとに何も知らなかったんでしょう? 底抜《そこぬ》けタンタンが気づくはずないわ」 「……まあ、確かに知らなかったけどさー。でも親父《おやじ》のしたことだからな!…⊥ 「わけわかんない言い訳シナイ!! 孝行なら別のとこでしてちょうだい!!」 「……何、別のとこってフ」静蘭はにっこり笑った。 「君は確かに御史台の官吏《かんり》としての地位は剥奪《はくだつ》されましたが、お嬢様と同じ冗官《じょうかん》にはかろうじて残れたんですよ。で、ですね、父君が|処刑《しょけい》される前に、君が何かイッバツ大手柄《おおてがら》でも立てたら、それに免《めん》じて|恩赦《おんしゃ》が出て減刑される可能性はあります」蘇芳は目を点にした。……冗官で、大手柄? 「……あームリムリ〜。超《ちょうー》むり。絶対無理」 「なんだってそんなにあきらめ早いのタソタンはー! 男を見せてみなさいよ!!」 「……男ねぇ……」  おもむろに下帯をほどきはじめた蘇芳の脳天に、静蘭が闇《やみ》を利用して肘鉄《ひじてつ》をくらあせた。 「……タンクソ君、お嬢様にへソなモノを見せたら、即死《そ′L、し》させますよ、即死。奥歯ガタガタ言わせますよ。だいたい君、見せられるほど自信があるんですか?」 「……だっ、だんだん|凶悪《きょうあく》になってくなあんた……」肘鉄の痛さにしゃがみこんだ蘇芳は、そのまま床《ゆか》に尻《しり》をついた。 「……あんたさt、ほんっと甘いなー。まーたこれで余計|煙《けむり》たがられるんじゃないの」 「言ってる意味ぜんぜんわかんないわ。そんなの無実の人の命と引き換《か》えになるほど、たいしたもんじゃないじやないの」あぐらをかいて、いつかのように頬杖《ほおづえ》をついて秀麗を見上げる。 「もし俺がさー、ホントにカソヨしてたら、ビーしてた〜」  秀麗は正直に答えた。 「……そのときになってみないと、わからないわ。お墓に花は供《モな》えに行ったとは思うけど」 「ふーん」  秀麗には、その『ふーん』がどんな意味をもっているのかわからなかった。  頭をさすりながら、蘇芳は立ち上がった。 「しょtもない親父だけど、親父には達いないからなt。絶対ムリだろうけど、まあ、ちょっとくらいなら前向きになってみてもいいかも」 「タンタソそっくりのお父様よね」 「そぉ。マヌケで、肝《養、も》が小さくて、利用されてるのにも気づかないんだよなー。もしかして親父、贋作の件もよくわかってなかったんじゃわーのかなって、牢屋《ここ》の中にいるとき、思ったりした」 「えフ⊥ 「親父さt、すごい嬉《うれ》しそうに、画《え》を飾《かぎ》ってたわけ。ホクホクと。偉《えら》くなるから、芸術を理解できるようにならないとt、とか言ってさt。あれマジだったのかも。大貴族って、囲って新人育てるじゃん?そんな感覚でさ。売買にしても、模写なら罪にならないだろ。親父、ほんとマヌケだから、画商が模写売ってるって信じ込んでてお小遣《こづか》いのたし感覚だったんじゃわーかなぁって。|今頃《いまごろ》、|膝《ひざ》でも抱《カカ》えてしくしく泣いてるだろな……」でも、と蘇芳は秀麗をみおろした。 「親父が、翰林院《かんり人いん》で書画をちょろまかしてたのは本当だし、いくつかは知ってて贋作描かせてたと思う。ちょこちょこ小さな悪事やって金稼《かせ》いでたし。やっぱ、それは事実なんだよなー」 「……お父様を利用したりしない人のそばにいれば、よかったのにね」秀麗の言葉に、蘇芳はちょっと目を丸くすると、ああ、と静蘭を見た。 「わかった。あんたが言ってた『ふっー以上』の人生の送り方」 「ほう」 「そりゃさt、自分がふっーでも、『ふっーじゃない』やつのそばにいれば、否応《いやおう》なく巻き込まれて波瀾万丈《はら人ぼんじょう》な人生だよな。うわー最悪。絶対こんな女嫁《よめ》にしねー」 「タソタン…….‥あなたの書いた超独創的な恋文《こいぶみ》、さらしものにするわよ⊥言った瞬間、《しゅんかん》静蘭が吹《ふ》きだした。 「思いださせないで下さいお嬢様! 冒頭《ぼうとう》を思い出すだけでもお腹が……」 「見せたなあんた!」 「家族だもの。おかげで大爆笑《だいぼくしょう》の楽しい一夜を過ごさせてもらったわ。永久保存よ」 「なんて女なんだ! 人が牢屋にいるってのに!」 「あ、そういえばタンクソ、自分のお邸《うち》に戻《もど》れるわよ」 「え?」 「賠償《ばいしょう》はね、碧家がいくらか肩代《かたが》わりを申し出てくれたのよ。で、お邸《やしき》だけは返してもらえたから。あの子……万里くんがね、頑張《がんぼ》ったのよ。遊んであげてたんですって、タンタン?」 「……遊んだっつtか、そこらでゴロゴロしてたら、庭院《にわ》で画描《か》いてたあの子供がよく泣きにきたんだよ。母上がいないーとかって。……そーいや似顔絵も描いてもらったりしたな」静蘭がちょっと|眉《まゆ》を上げた。 「それは、いずれ相当の値がつくかも知れませんよ」 「まあ、しばらくは邸でのんびりしてたら? |寂《さび》しくなったら遊びにくれはいいわよ」 「そうですね。万里くんの似顔絵を宿賃にくれたら歓迎《かんげい》いたしますよ」 (オニだこいつ……)  しかし紅秀麗はやっぱり気づかない。 「ほら、タンタンと|一緒《いっしょ》だと、静蘭も冗談な《じょうだん》んか言えるくらーいおしゃべりになるし」  その言葉こそが冗談に聞こえる。 「やだよ。ビーせまた引っ張り回されておっかない家人にタケノコ投げつけられるんだ」 「ええ?何言ってるの。静蘭はそんなことしないわよ。ねぇ?」 「もちろんです、お嬢様。《‥し上t 「ふごま》何か悲しい誤解があるようですね」 「……あのさー」  蘇芳がさすがに何か言おうとした瞬間、静蘭から殺気を感じて、口をつぐんだ。  T……ああ……長いものに巻かれちゃったぜ俺……)  タンタン、現実の厳しさを知る青く切ない春のR。          ・器・器・ 「姉たちがご迷惑《めいh∵、》をおかけして、大変申し訳ありませんでした!」  拍明は入室と同時に、深々と頭を下げた。 「官位剥奪《はくだつ》も|覚悟《かくご 》しております。どんな処分も甘んじて受けます」  劉輝ほ苦笑して頭を振《ふ》った。 「いや、今回の件で碧家には事後処理で骨を折ってもらった。むしろ礼を言う」 「とんでもありません。事前に察知できなかった碧家に全面的に非があります」 「それにしても、幽谷殿《ごの》が女性だとは思わなかった」  うっと泊明が頬《はお》を引きつらせた。 「……あの……姉が……何か……失礼なことを言いませんでしたか……?」  劉輝も絳攸も軟球もそれぞれ目を逸《土て》らした。そしてそれに関しては何も語らなかった。  酌明はダラダラと冷や|汗《あせ》を流した。 (い、言ったな姉さん……!! )  だから嫌《いや》だったのだ! その才能に反比例するように性格に難アリの幽谷の名声と碧家の名《めい》誉《よ》をなんとか守るために、徹底《てってい》的な情報規制をしいてきたというのに、すべておじゃんだ。  女の子が大好きで、妓楼《ぎろう》で仕事するのが大好きで、いつも他愛《たあい》ないことで|優《やさ》しい義兄《あに》に|怒《おこ》って、|息子《むすこ 》をつれてぶっちぎって好きなとこに行ってしまう碧歌梨。  あの姉を任せられるのは、後にも先にも義兄しかいない。というか、旦那《だんな》になってくれただけで、碧家は傍妃《ぽうだ》と涙《なみだ》を流して義兄に感謝した。そんな口はこないと思っていたのに。 「そういえば、経敗から、幽谷が次期当主になる可能性があると聞いていたが……?」 「ああ、そうなんです。女性なので、今までは当然外れてきたんですが……同期の紅秀麗が、官吏になったことが、碧家にも少なからぬ影響を及《えいきようおよ》ぼしまして……」  拍明はちょっと笑った。 「なら、幽谷が次期当主でも構わないんじゃないかという、話が出始めておりまして。勿論《もちろ人》、代替《だいが》わりをするとしても、何十年も先の話ですし、何より画を描くために生まれてきたような姉が、当主業なんてこなすつもりなど毛頭ないのは、誰《だーl》の目にも明らかなんですが……」一族の頭痛の種なのは|間違《ま ちが》いないが−。 「……夢を、見たくなるんだと、思います。姉は、人の形をした、碧家の宝です」  拍明自身、姉の目に世界ほどんなふうに映っているのだろうと、画を見るたびに思う。  千年の才。  すべての雑事など、何もかも霧消《むしょう》するほど、惹《ひ》かれる。 「彼女を生んだのは碧家だと、|自慢《じ まん》したくなるから、当主にと、思ってしまうんでしょう。頂点に立つ者は最高に優《すぐ》れた人間であってほしいと、思うのが人情ですから。……うちの場合、その秤《はかり》がやたら芸才に傾《かたむ》くんで、幽谷にとかいう案が出るわけですが……実際、義兄《あに》ならともかく、姉が当主になったら、とんだことになるのは目に見えてますし」 「う、うむ、そ、そうだな……」劉輝など、彼女が当主朝賀にくると思っただけで胃が痛い。ひどいことを言われそうだ。 「ただ、そういう議論が出たことは、評価しているんです。今までは、本当に考えもしなかった話ですから。いつか碧家でも、女性が堂々と、女名で雅号《がごう》を名乗れる日も、遠くないかもしれません。……押しっけられた勇名の雅号に、姉は本当に怒っていましたから」いくら才能があっても、女名では誰も認めない�そう言われたときの姉の顔を、拍明は今でも覚えている。批《まなHしり》をつりあげ、凄絶《ゼいゼう》な眠意《し人い》に瞳《=UレJみ》を染めて−誇《ほこ》り高いあの姉が、泣いた。  幽谷の名で描くことを承知するまで、|一切《いっさい》絵筆は|握《にぎ》らせないと長老たちに言われ、何もない室に閉じこめられた。指一本動かせないように、食事や|排泄《はいせつ》のときでも手足を縛《しぼ》られた。  一ケ月、姉は抵抗《ていこう》した。  今の義兄がそのことを知って飛んで助けにくるまで。そうして何も描けずにほとんど狂《くる》いかけていた姉に、義兄が泣いて折れてくれと懇願《こんがん》した。なんでもすると義兄が約束するのlと引き換《か》えに、姉はついに、幽谷の名を受け入れることに額《うなず》き、屈《くつ》した。  出てきた姉の画は、それまでとはまるで変わっていた。  寝食《しんしょく》を忘れて、描きつづけた膨大《ぼ与だい》な画、神がかったその才能に、一族中が戦慄《せんりつ》した。  一ケ月もの間、何も描けずに閉じこめられ、手足を縛られ、たった一人、闇《やみ》の中で姉が何を思っていたのかはわからない。けれどそれが、皮肉にも千年に一度の才を開花させた。  それが、碧幽谷の画の真実。  姉があんなふうな性格になったのも、あの件が関係しているのだろうと、思う。  そんな姉が男として愛するのは、間違いなく後にも先にも助けにきた義兄ただ一人。  拍明は、姉を助けられなかった。  けれど、姉を当主にと、いう意見が出たとき、あの過去が一気に遠くなった気がした。  女である碧幽谷を、ついに碧家は認めようとしている。 「……紅秀麗の存在は、それだけで様々に影響を及ぼします。その良し悪《あ.》Lを論じる者は多いかと思いますが……私個人は、男とか、女とか、そんなことは|些細《さ さい》なことだと、思ってます。良いものは誰が何と言おうと良い。碧幽谷が女と知れて画《え》の価値が下がることがあるなら、それは世の中が間違ってると、断言できます。姉の画は−そんなものに左右されはしない。姉も、その手から生まれいづるすべてのものも、碧家が誇る、最高の『碧宝』です」ですから、と拍明はつづけた。 「きしでがましいと思われましょうが、紅官吏《かんり》に対して、ご一考願いたいと思っております。志に性の別がありましょうか。彼女には、官吏の志があります。官吏としての価値は、それだけで|充分《じゅうぶん》ではないかと、思っています。よろしくお留め置き下さればと……」劉輝は|微笑《ほほえ》んだ。 「わかった。心に留めておく。そういえば、どうして歌梨殿は余が王だとわかったのだろう」  痢明はこともなげに答えた。 「ああ、骨相で。名家なら顔を見ればたいがい、どの家とどの家の血を《−1一》継いでいるのかはわかりますから。姉は観相もしますし。……もし陛下が|偽名《ぎ めい》を名乗っていたら、間違いなくとっとと見切り付けて帰ってたと思います……」危なかった、と劉輝は冷や汗を流した。 「それと、翰林院《かんりんいん》図画局の長官の座が空いているので、でされば幽谷殿にと思っていたのだが……やはり無理だろうか……」 「……そう言われたら、こう言え……いえ、こうお伝えして下さいと、言われておりまして」 「うむ。何か条件が?」 「……姉の言葉をそのままお伝えいたします。『ホホふ小水ホ! 朝廷《ちょうてい》に紅秀麗ちゃんみたいなかわいい女の子官吏がたくさん増えたら考えてあげてもよくってよ!』だそうで……」劉輝も絳攸も楸瑛もしばらく無言だった。  息子を取り戻《もご》し、ようやく落ち着いた歌梨は、ものすごくキラキラした目で秀麗を見つめ 「やっぱり、思った通りなんてカワイイ娘《●」》なの!」とべたべたさわりまくった。  迎《むか》えにとんできた旦那などほ 「なんでもするって言ったのに、どうしていつもいつもこんなに見つけるのが遅《おそ》いの!!愛がたりなくってよ!!」などとかなり邪険《じやけん》に追い払《はら》っていたのに。 「……なんか、やたら紅官吏を気に入っていた……な」 「……ええ……実は秀…いえ、紅官吏はもろに姉の好みにぴったりなんです……なんか、かわいすぎたり美人すぎたり胸が大きすぎたりしないところがいいらしいです……」それは襲《は》竺鼻翼なのだろうかと、劉輝は思った。 「……碧幽谷は、絶対男の|肖像画《しょうぞうが》を描《か》かないことで有名だったが……やはり……」 「も、もう、理由は、おわかり、かと、存じます。あ、ですが陛下の画ほ、気が向いたら描いてもいいと申しておりました」 「本当かフ」 「ええ……本当に|珍《めずら》しいことなんですが……身内以外で描くのは初めlてかと思います」泊明は首を捻《ひね》った。珍しいこともあるものだ。 「では、その気になったら、ぜひ頼《たの》むと、お願いしておいてくれ」 「わかりました」  碧泊明が退出したあと、劉輝は絳攸を見上げた。 「良い配下を、もてたな、経倣」 「ええ。なかなか見込みがあります」  絳攸の自慢そうな衷情に、劉輝も笑った。          ・薔・巻・  数日後−。 「……よお」  どこかばつが悪そうに都可邸《てい》にやってきた慶張を、秀麗は笑って迎えた。 「いらっしゃい、三太。なに、文《ふみ》の時間よりだいぶ早いじやない」 「ああ、うん、ちょっとな。……こないだの話のつづき、Lにきたんだけど」  ひらいた窓から、やわらかな春の風がさしこむ。  慶張は息を吸った。 「俺の嫁《よめ》になってくれ」  秀麗は目を閉じて、その声を聞いた。  ……多分、はじめてかもしれない。何も考えずに、その言葉を聞いたのは。  いつのまにか、そのくらい秀麗の周りは、ゴチャゴチャと複雑になってしまった。 「ありがとう、三太」  ふ、と、慶張は息を吐《は》いた。その言葉に含《ふく》まれる他《はか》の意味を、察して苦笑いする。 「……でも? つていうんだろ」  その言葉に、秀嵩は是《ぜ》とも否とも言わなかった。 「……ねぇ三太、こないだあんたに言われた言葉は、ものすごくまっすぐで、なんの飾《かぎ》りもなかったから、胸にきたわ。そりやもうぐさっとね」 「訂正《ていせい》しないぞ」 「わかってる。私も、否定するつもりはないわ。正しいと思う」 「そんでも、官吏がいいっていうのか?」秀麗は劉輝を思いだした。彼や! 紅秀寮という二人の官吏を信じて、すべてを託《たく》して、あらゆる無茶を叶《かな》えて送り出してくれた、高官たちを。  ……色々、説明しようと思っていた。何もかも|奪《うば》われたわけじゃないとか、利用されてもいい理由とか、王の判断が間違っていないとか、理解できるとか、何か優等生の答えを。  でも、三太のまっすぐな目に、すべての飾りをはずした答えがころがりおちた。 「私は、王の官吏でありたいの。今はただその道を、歩き続けられるだけ、歩きたいの」  慶張は目を閉じた。……団子屋で、話を聞いたときから、本当はわかっていた。 「だから三太」 「いや、その先は聞かない。答えは保留にさせといて」  秀麗の目が点になった。 「……保留⊥ 「言うと、|卑怯《ひきょう》だから、言わなかったんだけど、俺、今日これから茶州に発《た》つんだ」 「は!?な、なんで!?」  慶張は、懐《ふところ》から出した書翰《しよかん》を、ひらひらとふった。 「お前のせいでもあるんだぜ。少し前、茶州府通じて医者たちから全商連に要請《ようせい》があったんだよ。消毒に適した酒を開発してくれる若手の研究者が欲しいっていう。潜って、種類によって薬効も色々あるから、そっち方面でも調べたいらしくて、それ聞いて|応募《おうぼ 》してみたら通ったんだよ。これがその通知。例の学舎ができたらそのまま研究者として入るかもしれない」ふと、柳晋が学舎の話を聞いて、表情を変えたことを思いだした。……柳晋は、その話を聞いていたのかも知れない。 「お前が額《うなず》いたら、このまま邵可おじさんと、……一応静蘭にも殴《なぐ》られるの麗悟《かくご》で|挨拶《あいさつ》行って、茶州に|一緒《いっしょ》に連れてくつもりだったんだけど、ダメって言われそうだったら、このまま聞かなかったプリして、トンズラするつもりで、わざわざ狙《ねらト》ってきたわけ」丁・な、なんで?」 「そう簡単にあきらめるつもり、ないし。お前にもっと釣《つ》り合う男になったら帰ってくる。つて言ったらカッコ艮すぎ? ・ま、俺がここまで言ってもダメだったってことは、ど——せお前、当分結婚《けつ.こん》する気ないんだろ。だから別に待ってろとは言わないけどさ」  慶張は、背にしよっていた背嚢《はいのう》から、中くらいの箱をとりだした。 「1これ、お前にやる」 「……なに?」 「酒。俺がはじめてつくったヤツ。お前に最初にやるよ。とっとくなよ。呑《む》めよな」  秀麗は日を瞭《みは》った。……次いで、心に落ち・てきた優しい雫《しヂく》に、目を閉じる。  ……形のない贈《おく》り物は、はじめてかもしれないと、思った。 「……ありがと、三太」  この言葉に、慶張は片眉《かたま岬》を上げた。 「いっこだけいわせろ。今度帰ってきたら、いーかげん、名前で呼べよな。−じゃな」 「……|驚《おどろ》きましたね。タンタソ君よりよっぽど手強《てごわ》い求婚者ではありませんか」  静蘭の言葉に、秀麗はうーん、と目を上にした。タンタンはだいぶ規格外だと思う。 「ね、静蘭。……もし挨拶に行ったら、慶張、殴ってた?」 「当然ですね。半死半生にします」  タコ殴りに殴る気満々だ。 「……静蘭、|怒《おこ》ったら怖《こわ》いものね。相手の人のためにも、結婚しないほうが無難だわね……」  何気ない秀厚の言葉に、静蘭はふと顔を上げた。  それでも、意味は訊《き》かなかった。静蘭にとって、邵可と、秀麗と、三人の今が幸せなのだ。  今の静蘭は、大切なものがたくさんあるから、慎重《しんちょう》になる。  昔のように、剰那《せつな》的に生きて、何かをとって何かを失う生き方はしない。 「……お嬢様、《じょうーさ童》昔の言葉を、覚えてますか」  秀欝が、まだ女性が国試を受けられないとは知らなくて、官吏《かんり》を目指して邵可について一生《いつしょう》けAlめい              ころ懸命勉強していた頃。 「『私は末は|宰相《さいしょう》になるから.、静蘭は将軍になって、王様のお尻《しり》ビシバシ叩《たた》いて、二人で国をまもるのよ! だから静蘭、頑張《カ‡んば》って出世するのよ!』っておっしゃったこと」 「……。……。……い、いった、かも…………」 「私は、ちょっと迷っていたんですけれど……」静蘭が活苑《せいえ・九》公子であるという事実は、消えることはない。  劉輝のそばにいるにしても、どの程度までの|距離《きょり 》を保てばいいのか、迷っていた。  それでも、劉輝がしっかり立てるのなら、距離を置いて、見守るという道もあったが。 「なんかこう、任せられないといいますか、見てられないといいますか……」 「え?」 「もう少し、出世してもいいかと、考えまして」  秀麗の顔がバッと輝いた。 「−すぐに野菜からお肉主体の食卓《しょくたく》に切り替《か》えるわ! 家計浄《ぎ》見直してーあ、でも、忙《いそが》しくなって、あんまりご飯一緒にできなくなったりするのかしら」 「あ、それは|大丈夫《だいじょうぶ》です。お嬢様がお邸《やしき》にいるときは絶対帰ってきます。どんな手を使っても。……なんだか、予想以上にルソルソしてますね」 「だってこれでようやく私も父様も、お荷物じゃなくって静蘭と並んで歩けるもの」  なんでもないように言った言葉に、静蘭は軽く息を呑むと、ゆっくりと吐《ふ》いた。  ……本当に、敵《かな》わない。  守るという名分を失って、閉じていた殻《からl》を破れば、世界はずっと広かったような気分だ。  守ってかばうより、自由はずっと広がった。一緒にいたければ、並んで歩けばいい。  たとえば秀麗が宰相で、静蘭が将軍で。背中を預け合える未来も描《えが》けるところ。  T……それも結構いいな)  相手が燕青より、よっぽどいいと静蘭は思った。 「そういえばお嬢様」 「うん?」 「お嬢様が求婚を断って、ちょっとホッとしてます」  秀麗は照れて笑った。 「口がうまいわね、静蘭」    量量書▼  秀麗から文《ふみ》を受け取った劉輝は、その日時通りに邵可邸《てい》を|訪《おとず》れた。 「いらっしゃい」  秀窟はやってきた劉輝を、笑って迎《むか》えた。一緒に供をしてきた楸瑛と線紋は、素知らぬ顔でさりげなく二人から離れた。 「待っててくれて、ありがとう」  劉輝には、それがあのたった一行の文のとおり、『桜が喋《さ》くまで』ただ待っていたことなのか、茶州でのことなのか、わからなかった。どっちもだったかもしれない。  �桜が咲くまで。  それは裏返せば、咲いたら、必ず連絡《一lんら1く》をするから、それまで待っていてという、こと。  茶州の件、謹慎《きんしん》の件−この一年、あまりにも多くのことがたてつづけに起こりすぎた秀麗が、ようやくもてた静かな時間の中で、一人で何を考えていたのかは、劉輝にはわからない。  劉輝にわかるのは、自分の心と、自分がしたことだけだ。 「……桜が、咲いたそうだな」 「ええ。みっつだけだけれどね」  そうして、みっつだけ咲いている小さな桜の木に歩いていった。  その様子を見て、胡蝶にくっついて嬉々《きき》とやってきた歌梨と万里の目が、少し変わった。  無言で、歩く二人の姿をじっと見つめながらそれぞれ筆をとる。  そのことに、劉輝と秀麗は気づかない。  劉輝は滑息《ためいき》とともに言葉をこぼした。  ヲ…‥余は、謝れないのだ」 「ええ。その必要はないわ」 「謝れないが、必要があったら何度でも同じことをするかもしれぬ」 「わかってる。それが王様のお仕事だもの」  優等生の官吏の答えに、劉輝は少しだけ目を閉じた。 「�では、ここから先は、紫劉輝だ」  顔を上げて、秀京を見る。そして、ずっと考えていた台詞《せりふ》を、微《かす》かに笑って、告げた。             ヽ  ヽ      ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ      ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ      ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 「……私は、王をよく知っている。言いたいことがあるなら、伝えてやる」  秀麗は思わず目を丸くした。さすがに、その台詞は、予想外だった。   ー二年前の、桜の下。  初めて会ったときの、その言葉を。  ここで言うとは思わなかった。  気づけば、秀麗の頬《はお》はゆるんでいた。  サツと劉輝のほうを向き、腰《こし》に手を当ててみせた。 「いいのね? |後悔《こうかい》しないわね7本当に言っちゃうわよフ」 「うむ。どんとこいと言っていたから、遠慮《え・人りよ》なくくるのだ。私がちゃんと伝える」 「伝えたら、あなたの首が飛んじゃうかもしれないわよ」 「今の王様は大変寛大《かんだい》で立派だそうだから、まったくそんな心配はいらぬ」  しかつめらしい顔の劉輝に、秀麗もわざと|真面目《まじめ》な顔をして、|咳払《せきばら》いした。 「わかったわ。じゃ、こう伝えてちょうだい」  秀麗は息を吸い込み、思いっきり|叫《さけ》んだ。 「でしんちくしょー! 謹慎?ふざけんなよ!!』」  ……それを耳にした、その場の誰《だ奮l》もが静まり返った。  タソタンは今頃くしゃみをしているかもしれないと思いながら、秀麗は笑った。なかなかいい言葉を教えてもらった。色々なものが全部詰《つ》まっていて、叫べば臭《そら》に放《はう》り出せるような。 「これでいいわ。これで全部帳消しょ。そう王様に伝えてちょうだい」  劉輝は目を|瞬《またた》いた。……もうちょっと、怒涛《どとう》のように何か言われると思っていたのに。 「それだけでいいのか?」 「いいわよ。あとは私が一からまた頑張るだけだもの。何度だってそうするわ」  何度だって、そうして越えていく。だから。  あなたは何も気にする必要なんてないと、秀麗の鮮やかな笑顔が告げる。 「それより、せっかくつくった約束の茶州の料理が冷めちゃうけど、いいの?」  劉輝は慌《あわ》てた。 「いや、いかん。食べる。……からい大根は?」 「入れてないわよ」      ニー一 「可面はエ 「好きな曲を弾《ひ》いてあげるわ」 「散歩はフ」 「この庭院《にわ》の中なら、つきあってあげる」 「嫁《よめ》は?」 「約束した覚えはトンとないわね」  チッと劉輝は心の中で舌打ちした。  聞いていた胡蝶が弾《はじ》けるように笑いだした。 「やうばり秀麗ちゃんは大物になるねぇ」  歌梨と万里が一心不乱に絵筆をすべら壺、何校もの料紙に画《え》を描《か》いていく。 「……そういえば母上」 「なあに」 「こないだの雅号《がごう》……僕『碧歌梨』がいいなって、ずっと思ってたんだ。いい?」  その言葉に、歌梨と歌梨の夫の欧陽純は腔目《じ伸んどうも/1》し�歌梨はくしゃくしゃになる顔をおさえ、万里の頬をつねった。 「……生意気だわ! きっとあなたの血のせいね、この唐変木《とうへんぼく》!」  キヅと旦那《だんな》の欧陽純を睨《にら▼》み付けると、照れ隠《かく》しのように絵筆を走らせる。  そんな歌梨を描こうと欧陽純が筆を芋にとると、ぴしゃりと歌梨に手を叩《たた》かれた。 「あたくしの画は勝手に描かないでって約束したでしょう!!あなたはわたくLと万里に歌でも歌ってればよろしいのよ!!」欧陽純は歌才はかなりのものだが、画は確かにへたくそだった。しかしなぜそんなに描いてはいけないと言われるのか、彼は未《い圭》だにわからない。せっかくいい表情《かお》をしているのに。 「……なんでダメなのかなぁ……」 「あのね、父上が描くと、母上の『本当』が画に写しとられちゃうからだよ。いつもいばってるのが|嘘《うそ》だってバレちゃうから、母上が嫌《いや》がるんだ」 「万里! 余計なことを言うんじゃなくってよ!!」 「ふーん。そんなの、とっくにばれてるのにねぇ」  欧陽純があっさりそういうと、歌梨は手にした文鎮《ぷんちん》で旦那を殴《なぐ》った。 ——世にまれなる二人の画師によって描かれたこの画が日の目を見るのは、まだ先の話。          ・藤・器・ 「わかった。1−ご苦労。下がってよい」  彼がそう配下に告げたとき、誰かがいきなり入ってきた。   ’−tつ毒− 「皇毅、入るよ」  楽しげな声で名を呼ばれ、男は決裁していた苦翰《しよか人》から顔を上げた。歳《ヒし》は三十代後半、冬のようた冷ややかな双睦《そうぼう》は、ともすれば光の加減で灰色に見えるほど色素が薄《うす》い。 「妾樹《あんじゆ》……俺の仕事は知っているだろう。いきなり入ってくるなと何度言ったらわかる」 「長い付き合いでも官位が上の僕に対してその日の利《き》き方はいけないね。おや、先客か」  曇樹と呼ばれた男は、同じ年の頃《ころ》でも対照的にそこにいるだけで明るく華《はな》やぐような雰囲気《ふんいき》をまとい、くるくる明るく色を変える瞳《ひとみ》には、いつも皇毅にはない茶目っ気があふれている。  ゆったりとした口調も仕草も態度も、官位に似合わぬ気楽さがあるが、それでも浮《うわ》ついた感じがしないのは、土台にあるのが高い知性と教養だと端々《はしばし》の言動から知れるからだ。  そのときまで皇毅と向かい合うようにして仕事の報告をしていた男が、曇樹に向かってスッと一礼すると、入れ違うように出て行った。 「……で?何の用だ」 「上司が、君によくやったってさ。冗官な《じょうかん》ら何もできないだろうと気を抜《ぬ》いてたのに、今回また危なかったから|不機嫌《ふきげん》でね。どうでもいいけれど、君のその無表情、もう少しなんとかならないかな。気分転換《てんかん》にきたのに、ますます嫌になるんだけれど」やれやれと首をすくめた幼なじみにも、皇毅は|眉《まゆ》一つ動かさなかった。 「まったくどうでもいい話だな。他《はか》を当たれ。単なる仕事をしただけだ」 「はいはい。君もね、国試派官吏《かんり》への態度、もう少しやわらかくしてほしいんだけど。そうすれば僕の気苦労も少しは減るのに。国試派と貴族派のー間を一生懸命《いつしようけ∵んめしl》取り持ってる僕のことも少しは考えてくれないかなー……」 「知ったことか」 「そう言うと思ったけど、本当に言ったね君……ああ僕の受難はまだまだつづくのか……」ぷつぷつこぼす愚痴《か1Lち》さえ、彼にかかると明るく聞こえる。 「正直、僕は結構気に入ってるんだけれどね、彼女」  皇毅が氷のような目をチラリと向けても、慣れている螢樹は笑うだけだった。 「頑張《がんぼ》ってる娘《こ》は、好きだから」 「……なら、お前の嫁《よめ》にでもとったらどうだフ」 「おっと、君の口からそんな言葉が出るとは。彼女、十八だったっけ。僕の歳で迎《むか》えたら幼妻っていわれるのかなー……。ああフクザツ。もうそんな歳になっちゃったとは……」  皇毅は初めて小揺《こゆ》るぎもしなかった眉を片方上げ、蜃樹を見た。 「お前はまったくよくしゃべるな。で?旺季殿《ごの》は次の一手を打ったのか」 「今頃宰相《いまごろきいしようl》会議で提案してる頃だと思うよ」  二手』を聞いた皇毅は、やはりまったく衷情を変えなかった。 「……ほぉ、|面白《おもしろ》いな」   そして、ただそれだけ|呟《つぶや》いた。            ・怨・器・ 「むむむむむt。このままではいきませぬ……」  宰相会議の行われる政事堂にテクテク歩きながら、羽令事はモコモコの眉の下にある日をキラリと光ら壺た。どんなにどんなに追いかけてもぶっちぎられつづけているこの.現状。 「あたくし一人では、若く背も高く足も遠い主上になめられてしまうのは道理……」   なめられるどころか、机案《つくえ》の下に隠れるほど恐《こわ》がられていることを知らないうーさまである。 「ここはやはり、ガツソと思い切った先手を打たわはなりませぬ。ガツソと」  羽令声は決意も新たに先手を考えた。自分が仙洞《せんごう》省の次官なのも間者なのかもしれない。  仙洞省長官職・仙洞令君が非常駐《ひじようちゅう》の官なのは、ある特別な資格が必要だからなのだが�。 「……やはりここは、空位の仙洞省長官、仙洞令君の招鞘《しようへい》を−」          ・能・能・  その日の宰相会議は、門下省長官である旺李が静かに口火を切った。 「私から、一つ提案があります」  とん、と旺李の指が机案をひとつ、打った。 「鄭尚書令《しょうしよれい》の、こないだの十箇条《かじょ▼う》、私も少々考えました」  悠舜の目がふっと旺李に向けられる。 「なかでも、無駄《むだ》な官の廃止《ほいし》�確かに、もっともですな。無駄な食い扶持《ぶち》が減れば、戸部の財政も浮《lつ》きます」何を言いたいのか察して、劉輝はぐっと唇《くちげる》をかみしめた。  旺李は、ゆったりと|微笑《ほほえ》んだ。       ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  ヽ      ヽ  ヽ   ヽ  ヽ   ヽ  ヽ   ヽ   ヽ   ヽ      ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  ヽ 「現在冗官である官吏の、一斉退官及び処分を、捏案いたします」          ・器・翰・  その日、秀麗はしまっておいた官服一式をとりだした。それぞれ袖《そで》を通すごとに、徐々《じよじょ》に顔つきが引き締《し》まっていく心地《ここち》がする。最後に帯留めをシュッとしぼれば、ゆるんでいた最後の心の糸が、ピソと張りつめた。葛龍《つづら》に残っているのは、あとは�膏″《l 「ぼみ》の轡《かんぎし》ひとつ。手を伸《由》ばし、髪《かみ》を結《ゆ》おうとしたとき、静蘭が書鞄《てがみ》をもって入室してきた。 「お嬢様、《じ上Tうきよ》お支度《した・、》中に申し訳ありません。城から書翰が届きまして�」 「ええ? せっかV持ちに待った謹慎《lT人し人l》解禁日だっていうのに、わざわざなんなのかしら。あ、ま、まさか、|貴殿《き でん》禁止延長しますとかの申し渡《わた》しとかじゃないでしょうね……」  まるで不幸の書翰《てがみ》でももらったかのように、秀麗はおそるおそる文《ふみ》をつまみあげた。  ひらいて目を通し一|一拍《いっぱく》。 「……な、な、な、なぁんですってぇええええええ−T      うつつつ!?」  同時刻、まったく同じ文が届けられた蘇芳は、読んだあとにかりこりと頬《はお》をかいた。 「…………あーあ……やうばり世の中甘くねぇなー…………親父悪《おや!?▼L耶り》い。先に謝っとくぜ」  あとがきこんにちは、コタツのしまえない三度目の夏を迎《むか》え、記録更新《こうし人》した雪乃紗衣《仲きのさい》です。……なんだろう……別にアラスカに住んでいるわけでもないのに、一年で九ケ月もコタツと共に過ごしてるなんておかしい気がするけど……気のせいかな、ウソ(↑まっとうな判断力低下)。  ——さて今巻ですが、……なんだかまたイロイロ増えました……としか……(汗)。  既読《きごく》のかたは 「……ナゼにタイトルが『紅梅』〜」と疑問を抱《いだ》かれるかと……。ヒントは秀産と、今回の影《かげ》の主役(?)の名前にあります。忘れていなかったら、ネタはらしは次の巻の後書きで。でも古語辞典をひらけば、イッバツです。よろしければめくってみてくださいませ。  しかしサブタイトル……まさか八色一巡《いらじゅん》すると思わなかったので、そのツケが……ぎゃt。 「『彩雲国物語9』でいいじゃないですか」と言い張った私。この先おかしな色タイトルが出たら、その時は 「ムリしてるな」と笑って、生温かくスルーしてやってください……。  今回の表紙はひとしお感慨《かんがい》深いものがありました。一巻と対《つい》になる装《よそお》いですが、並べてみると、……大人になったな、と。言葉にできない歳月を、一枚の絵ですくいあげてくださる由羅先生には本当に敬服します。由羅先生は勿論《もらろん》、担当様、そして何より、支えてくださる読者の|皆様《みなさま》へ改めて感謝を|捧《ささ》げます。−それでは、また次の機会にお会いできますよう……。                               雪乃紗衣